札幌高等裁判所 昭和58年(う)105号 判決 1988年1月21日
《判決目次》
主文
理由
第一 事実誤認の主張について
一はじめに
二事案の概要
三本件爆発物について
1 爆発現場における証拠物の収集
(一) 爆発物の容器
(二) 旅行用時計ツーリスト〇二四
(三) その他の破片等
(四) デニム製のバッグ等
2 爆発物の構造とその設置状況
(一) 爆発物の構造
(二) 爆発物設置の状況等
四被告人逮捕の経緯
1 被告人に関する捜査の端緒
2 被告人の逮捕
五本件爆発物と被告人との結び付きについて
1 本件爆発物容器と同型式の消火器の所持
2 爆薬の主剤である除草剤の所持
3 本件爆発物に使用されたと同種の接着剤の所持等
4 被告人の居室にあったマイナスネジと本件爆発物の時限装置との関係
5 被告人所持の簡便ナイフホールダーから切り取られた鉄板片の行方
6 爆発物製造に必要なその他の材料、工具等の所持
7 爆発物製造に必要な知識の取得
8 小括
六道庁爆破事件の犯行声明文と被告人との結び付きについて
1 道庁爆破事件の犯行声明文
(一) 犯行声明文発見の端緒
(二) 犯行声明文に記入された「*」印記号
(三) 犯行声明文の内容と被告人の爆弾闘争の目的等
2 道警爆破事件の犯行声明文及び通告電話を介した結び付き
(一) 道庁爆破事件の犯行声明文に使われたテープライターの打刻文字と道警爆破事件の犯行声明文に使われたそれとの対比
(二) 道警爆破事件の通告電話の送話者の音声と被告人のそれとの対比
3 小括
七本件爆発物の設置について
1 証人甲野の原審及び当番における目撃証言
(一) 証人甲野の目撃状況に関する証言の要旨
(二) 甲野が原審において証言するに至った経緯
(三) 甲野証言の信用性
2 その他の証拠
(一) 石沢徳四郎の検察官に対する供述調書の要旨
(二) 証人真田の原審及び当審証言の要旨
(三) 証人飯塚の当審証言の要旨
(四) 証人向井、同森木、同大原の各原審証言の要旨
(五) 検討
3 本件爆発物の設置時間
八道庁爆破事件当時から逮捕までの被告人の特異な言動について
1 捜査の進捗状況についての強い関心
2 可児町事件以降逮捕までの言動
九被告人の経歴と行動、本件犯行の動機等について
1 経歴と行動
2 本件審理過程における被告人の言動
3 本件犯行の動機の存在
一〇太田早苗、加藤三郎の道庁爆破事件犯人についての認識及びその経緯
1 太田早苗の場合
2 加藤三郎の場合
3 小括
一一証拠評価の総括
一二事実誤認の各所論に対する判断(証拠の採用に関する手続違法の主張に対する判断を含む。)
1 アリバイの主張について
2 犯行の動機について
3 爆発物製造に必要な知識について
4 爆発物の材料、工具等について
(一) 除草剤について
(二) 消火器について
(三) ビニールテープについて
(四) 接着剤について
(五) 時限装置の接点に使われた金属片について
(六) リン止めネジについて
(七) 本件爆発物のその他の材料、工具等について
5 本件爆発物の設置について
(一) 本件爆発物の設置時間について
(二) 甲野証言の信用性について
6 道庁爆破事件の犯行声明文と被告人との結び付きについて
(一) 道庁爆破事件の犯行声明文の「*」印記号について
(二) 道庁爆破事件及び道警爆破事件の各犯行声明文を打刻したテープライターの片仮名文字盤の同一性について
(三) 道警爆破事件の通告電話の音声の声紋鑑定について
(四) 道警爆破事件の通告電話のパルス音について
(五) 道警爆破事件の通告電話、犯行声明文に関する証拠排除の主張について
7 被告人の不自然な言動について
8 太田早苗の検察官に対する供述調書謄本の証拠能力と信用性について
9 共犯者の存在について
一三結語
第二 訴訟手続の法令違反の主張について
第三 法令適用の誤の主張について
結論
主文
本件控訴を棄却する。
当審における訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人高野国雄、同入江五郎、同八重樫和裕提出の控訴趣意書(昭和五九年一月三一日付控訴趣意書、同年三月一六日付控訴趣意書訂正申立書、同年三月二七日付控訴趣意補充書)及び被告人提出の控訴趣意書(昭和五九年一月三一日付控訴趣意書、同年二月二一日付控訴趣意書の訂正申立書)に記載されたとおりであり、検察官の答弁は、検察官土屋守、同小柳file_3.jpg治提出の答弁書に記載されたとおりであるから、これを引用する。
第一 事実誤認の主張について
一はじめに
被告人及び弁護人らは、その各控訴趣意において、原判決の事実認定のほぼ全般につき事実の誤認を主張しているところ、被告人と深いかかわりを持っていた加藤三郎、同人と行動を共にし被告人とも結び付きがあるとみられていた太田早苗の各供述が、いずれも原判決後、当審段階に至って初めて得られるに至ったことなどの事情もあって、当審においては、証拠調べに多数回の公判期日を費やしたが、その結果、原審段階では判然としていなかったいくつかの事実点もある程度明らかになり、弁護人及び検察官は、それぞれ控訴趣意書、答弁書の論旨に加え、これら当審でおこなわれた事実取調べの結果に基づいて、詳細な弁論をおこなった。
そこで、当裁判所は、被告人及び弁護人の各控訴趣意と検察官の答弁、さらには弁護人及び検察官の各弁論を踏まえ、原審記録及び証拠物を精査し当審における事実取調べの結果を合わせ慎重に検討したところ、被告人を本件の犯人であると認定した原判決の事実認定の結論に誤りはなく、所論は理由がないとの確信に達したが、このような結論に達した理由を示す順序として、先に述べたような本件審理の経緯にもかんがみ、まず、当裁判所がこのような心証を得るに至った理由を明らかにしたうえで、原判決に対する事実誤認の所論について判断を示し、その過程において、原判決の事実認定上の問題点についてその当否を論ずることとする。
なお、本文中で断るほか、以下の略語を用いることがある。
梅澤鑑定
梅澤第一鑑定=梅澤喜夫作成の昭和六〇年五月二二日付鑑定書
梅澤第二鑑定=同人作成の昭和六一年一月二一日受付の鑑定報告書
梅澤第三鑑定=同人作成の昭和六一年三月五日付鑑定報告書
松田鑑定
松田第一鑑定=松田禎行作成の昭和六一年八月一日受付の鑑定報告書
松田第二鑑定=同人作成の昭和六二年六月一日付鑑定報告書
松田第三鑑定=同人作成の昭和六二年六月三日付鑑定報告書
小野富三の鑑定
小野第一鑑定=北海道立工業試験場長作成名義の昭和六〇年八月一日付回答書
小野第二鑑定=同試験場長作成名義の昭和六二年一月二七日付成績書(マッチ頭薬に関するもの)(当審検察官請求番号二五六)
小野第三鑑定=同試験場長作成名義の右同日付成績書(マッチ頭薬とアジシオに関するもの)(当審検察官請求番号二五八)
小野第四鑑定=同試験場長作成名義の昭和六二年三月二五日付成績書
小野第五鑑定=同試験場長作成名義の昭和六二年七月七日付成績書
鈴木鑑定
鈴木第一鑑定=鈴木隆雄作成の昭和五一年三月一一日付鑑定書
鈴木第二鑑定=同人作成の昭和五一年一〇月二三日付鑑定書
鈴木第三鑑定=同人作成の昭和五二年六月二八日付鑑定書
鈴木第四鑑定=同人作成の昭和六一年六月二八日付鑑定補充資料
二事案の概要
原判決挙示の証拠によれば、以下の事実が認められる。
本件は、昭和五一年三月二日午前九時二分ころ、札幌市中央区北三条西六丁目一番地に所在する北海道庁(以下「道庁」という。なお、北海道庁本庁舎を指して「道庁」ということもある。)本庁舎一階エレベーターホールの四号エレベーター昇降口付近に設置された爆発物が爆発し、多数の死傷者を出したという事案(以下「道庁爆破事件」あるいは「本件事件」という。)であるが、道庁本庁舎は、北四条通りと西七丁目通りに接する東西二四〇メートル、南北二四八メートルのほぼ正方形の構内に建てられた、旧庁舎に隣接する鉄筋コンクリート一四階建の建物であり、道庁の事務部門の大半が占め、一階には銀行の出張所、郵便局、交通公社営業所等が収容され、中央部には、二階まで吹き抜けになっている面積約452.27平方メートルの玄関ホールが設けられ、同ホールを挟んで東西両側に出入り口があって、庁舎を東西の両側から通り抜けられるようになっており、同ホール南側には幅7.25メートルのエレベーターホールがあって、これを挟んで東側と西側にエレベーター各四基が設けられていて、本件爆発物が設置された場所は、西側北端にある四号エレベーター昇降口北側の東向き壁際の床面である。
右爆発物の爆発によって、右エレベーター付近に居合わせた道庁職員の五十嵐怜子(当時四五年)が爆発によるショックにより、同溝井是徳(当時五〇年)が右側腹部に受けた爆創による失血により、いずれも同日死亡したほか、原判決別紙「負傷者一覧表」記載のとおり服部祐昌(当時三三年)が飛散した爆発物の破片により治癒見込み不明の右大腿部切断を必要とする右大腿骨開放性骨折、急性腎不全等の傷害を負ったのをはじめ、合計八一名が飛散した爆発物の破片や爆風等により全治約四日から治癒見込み不明の原判示の各傷害を負ったこと、また、爆心地である前記エレベーター付近の床面には漏斗状の穴があき、北西側壁の大理石は床部分から天井部分まで約二〇センチメートルにわたって全部剥がれ、コンクリート壁が露出し、四号エレベーターの扉が内側に大きく傾斜して地階に落下寸前の状態になり、天井に張ってある金属外装板が破壊され、玄関ホールにおいても天井構造物等の損壊落下を来すなどの被害が生じたものであって、その復旧に要する費用額は、総額九七三〇万円相当に及ぶものであったことが認められる。
三本件爆発物について
1 爆発現場における証拠物の収集
関係証拠によれば、本件事件発生の直後、関係者らからの通報を受けた北海道警察(以下「道警」という。)本部は、直ちに札幌方面中央警察署(以下「中央署」ともいう。)内に、北海道庁庁舎内爆破事件特別捜査本部(以下「爆捜本部」という。)を設置し、被害者の救出を待って、同日午前九時一〇分ころから、爆発現場の実況見分を実施するとともに、道庁本庁舎一階及びその周辺を七ブロックに分け、爆発物の破片等について徹底した収集活動をおこなって、多数の証拠物を発見押収し、これらを詳細に分析検討したところ、以下の事実が判明した。
(一) 爆発物の容器
爆心地点である四号エレベーターとその向い側の八号エレベーターとの間の床面に、集中的に消火器容器の破片が散乱していたが、これは、昭和四五年一月二三日から同年一二月二〇日ころまでの間に株式会社初田製作所で製造されたハッタ式一〇LPI型(容量約5.2リットル、外径約一四センチメートル、高さ約五一センチメートル、深さ約三四センチメートル)の消火器(以下「本件消火器」ともいう。)であって、本来備わっているはずの提げレバー、ガスボンベ、排圧管、送粉管が取り外され、そのホースは付け根の部分から切断されており、破片の大部分が、消火器内部に異常な圧力を生じて裂断したと認められる強い変形を示していたことから、この消火器容器が爆発物本体の容器(以下「爆体容器」という。)として使用されたものと認められる。
(二) 旅行用時計ツーリスト〇二四
現場付近から旅行用時計の破片多数が発見されたが、これは、リズム時計工業株式会社益子工場において、昭和五〇年四月、五月、及び一二月に、合計四〇〇三個製造された小型目覚時計の一種である旅行用時計コンパクトアラーム・ツーリスト〇二四(グリーン文字盤)(以下「ツーリスト〇二四」という。)の破片であること、右時計の部品のリンと認められる破片に接着剤が付着していたこと、さらに時計ケースの破片が爆発現場から発見されなかったことなどから、右ツーリスト〇二四がケースを取り外した状態で時限装置として使用されたものであることが、それぞれ認められる。
(三) その他の破片等
爆発現場から収集されたその他の破片等を総合すると、本件爆発物には、東芝製キングパワーUS−006P九ボルトの積層乾電池、瞬発式六号電気雷管、東芝製中間スイッチ(DS八〇一二)、導線に使用したと思われる外径1.25ミリメートルの黄色ビニール被覆単芯コード(素線一〇本を寄り合わせたもので、素線の径0.11ミリメートル)が使用されていたほか、積層乾電池の陽極端子と中間スイッチに接続した端子ネジにも接着剤が付着していたことが認められる。
(四) デニム製のバック等
また、爆発現場付近から押収された青色レーヨンデニム布地破片、紙片等を総合すると、株式会社長崎屋がオリジナル商品として発売したサンバードデニム・スポーツバック(成島製鞄株式会社製造)、昭和五一年三月一日付け及び同月二日付けの「日本経済新聞」朝刊全ページ各一部並びに同月七日付け週刊誌「サンデー毎日」増大号一冊が現場に存在したことが認められる。
2 爆発物の構造とその設置状況
以上摘記した押収物とともに、その余の関係証拠を併せ検討すると、本件爆発物の構造とその設置の状況等は、およそ次のようなものであったと推認することができる。
(一) 爆発物の構造
(1) 本件爆発物は、爆体容器としてハッタ式一〇LPI型消火器が使用されているが、前述のとおり、右消火器の提げレバー、操作レバー、ガスボンベ、排圧管及び送粉管が取り外され、ホースは付け根で切断されており、口金に近い湾曲部分に直径約五ミリメートルの孔があけられ、その内側はヤスリ仕上げが施されており、この爆体容器に爆薬を充填したうえ、起爆装置として前記電気雷管を挿入し、右消火器の湾曲部に穿った孔から右雷管の脚線二本を出し、その一方を前記積層乾電池に接続し、他方を時限装置として工作した前記旅行用時計を経て右乾電池に接続して、その電気回路の間に中間スイッチをつないであった。
そして、右時限装置は、予め設定された時刻になると上げバネが解かれ、撞木がリンの内側側面をたたくという目覚まし機構を利用したもので、前記電気回路の導線の一方を下板止めネジ(器械本体を止めるネジ)の一本に巻き付け、接着剤で固定して時計本体に接続させ、他方の導線をリンの側面に穿った孔から内側に通し、リンの内側側面の撞木がたたく部分に接着剤を用いて金属片を貼りつけ、時計本体と電気的に絶縁したうえ、右金属片に右導線を接続させて、予め設定した時刻に撞木がリンの内側側面に貼付した前記金属片に触れると、電気回路に通電して電気雷管が起爆する仕掛けであったと認められる。
(2) 消火器容器破片、スポーツバックの布地片及び多数の紙片等に、硝煙様の臭いがあり、付着物の赤外線吸収スペクトル検査、エックス線回折法による検査、実体顕微鏡の検査等によると、塩素酸イオン、塩素イオン、ナトリウム、硫黄、木炭粉の存在が認められたことから、本件爆発物に使用された爆薬は、塩素酸ナトリウムを主剤とし、これに硫黄、木炭粉を混合した混合爆薬であると認められ、爆体容器に用いられた消火器の容量は約5.2リットルであるが、容器内部には起爆装置の電気雷管が装着され、爆薬の上部に砂糖も詰められていたものと認められるから、爆薬の総容量はこれをやや下回るものと認められる。
(3) 以上のとおり、本件爆発物は、いわゆる時限装置付きの消火器爆弾であって、あらかじめ設定された時刻になるとツーリスト〇二四の撞木が接点の金属片に接触し、電気回路に通電して電気雷管が起爆し、爆体容器内に充填された混合爆薬が爆発する仕掛けになっていたものであるが、爆体容器に用いられた消火器はシームレス加工とよばれる工法により胴体部分が鉄の一枚板を成型してあって継ぎ目がないため、密閉性が高く、そのため極めて威力が大きかったことは、本件爆発の被害状況からも裏付けられる。
(二) 爆発物設置の状況等
本件爆発物は、八つ折りにした新聞紙(破損の状況からして、昭和五一年三月一日付の日本経済新聞朝刊が外側に、同月二日付の日本経済新聞朝刊が内側になっていたと認められる。)及び二つ折にした週刊誌(同月七日付け「サンデー毎日」増大号)が、爆体容器である消火器の周囲に置かれた状態で、前記スポーツバックに収納されて、本庁舎一階四号エレベーター昇降口北側脇の壁際に設置されていた。
四被告人逮捕の経緯
関係証拠によれば、以下の事実が認められる。
1 被告人に関する捜査の端緒
道警本部は、本件事件については、約半年前の昭和五〇年七月一九日に発生し、未だ解決されていない北海道警察本部爆破事件(以下「道警爆破事件」という。)の場合と同様に、犯人が札幌市営地下鉄大通駅のコインロッカーに声明文を入れるかもしれないと考えて、急遽、地下鉄大通駅に警察官を派遣し、本件事件発生当日の午前九時五〇分ころから、同駅付近を巡回監視させた。一方、同日午後零時四〇分ころ、札幌市中央区所在の北海道新聞本社に対し、若い男の声で、「大通駅コインロッカー三一番に声明文が入れてある。東アジア反日……戦線」と通告電話があり、同新聞社の記者が地下鉄大通駅の当該コインロッカー付近に駆けつけ、前記巡回中の警察官に右の事情を知らせたこと、そこで同警察官は、爆捜本部の指示にもとづいて、コインロッカーの管理会社の係員立会のもとに、同日午後一時二〇分ころ、同駅に設置されたコインロッカー三一番を開けたところ、通告電話のとおり、テープライターで作成された「東アジア反日武装戦線」名義の犯行声明文(内容は、原判決別紙「声明文」記載のとおりである。以下「本件犯行声明文」という。)が発見された。そこで、爆捜本部は、本件事件の犯人の目撃者等の発見に努めたところ、当時用務で札幌市に出張していた根室市在住の会社役員甲野太郎が、本件事件当日の朝、道庁西玄関から道庁内に立ち入った不審な二人連れの男を目撃しているとの情報を得て、警察官らを根室市に派遣し、右甲野から目撃の状況について事情聴取して供述調書を作成するとともに、同人の協力のもとに右二人連れの男の全身像等のイラストレーション合計三枚を作成し、さらにその協力により道警釧路方面本部及び道警本部において右二人連れの男のモンタージュ写真を作成したが、犯行の容疑者として特定するまでには至らなかった。
ところが、昭和五一年七月二日、岐阜県可児町(その後、可児市となる。)において、警ら中の警察官が不審な男を発見して職務質問し、警察官派出所に任意同行を求めて事情聴取をしたうえ、所持品を検査しようとしたところ、所持していたショッピングバッグ等をその場に遺留したまま逃走するという事件が発生し、遺留された右バック等から高濃度塩素酸塩系除草剤(以下「除草剤」ということもある。)(商品名「クロレートソーダ」)五キログラム入り二袋、ビン入り硫黄粉末、爆発物の製造法を記載した「腹腹時計」(技術篇)のコピー等が発見され、遺留物件に付着していた指紋等から、右の男が加藤三郎であることが判明したため(以下、これを「可児町事件」という。)、岐阜県警本部は、同人を毒物及び劇物取締法違反容疑で全国に指名手配するとともに、道警本部に対して、同人の立ち回り先として、札幌市東区《番地略》所在の乙野次郎方に居住する被告人の住所、氏名等を通報したため、道警本部では、ここに初めて右乙野次郎方に居住する被告人の存在を知るに至った。
2 被告人の逮捕
爆捜本部は、前記のいきさつから、当初、被告人を単に加藤の立ち回り先として考え、同年七月下旬からとりあえず右乙野方付近に張り込んで被告人の行動観察を始めたが、被告人の所在がつかめずにいたところ、同年八月六日になって乙野方へ戻ってきた被告人が自己の保有する普通乗用自動車に荷物を積み込んで外出したため、これを追尾したものの、途中で見失ない、その後も、被告人は外出する度に自室からダンボール箱等に入れた荷物を運び出して投棄している様子が窺われたことから、その投棄物件の発見に努め、その一部である多量の硫黄及び木炭、消火器二本、茶箱四個等の原判決別紙「投棄物一覧表」記載の各物件を発見して押収し、爆捜本部において、これらを分析検討したところ、その大部分が、本件爆発物と同一の構造をもつ爆発物の製造等に必要ないし有用な材料及び工具等であり、被告人が、単に前記加藤三郎の立ち回り先というにとどまらず、爆発物取締罰則一条の目的で爆発物の使用に供すべき消火器、電池、豆電灯等を所持していた容疑が濃厚になったため、被告人を爆発物取締罰則三条違反罪の容疑により逮捕する方針のもとに引き続きその動静観察をおこない、同月一〇日札幌簡易裁判所の裁判官に逮捕状等を請求したが、被告人が同日午後には前記普通乗用自動車を運転して苫小牧市に向かったため、爆捜本部では、逃走するものと判断して、同日午後三時二一分ころ苫小牧フェリー発着場近くの苫小牧警察署西港警備警察官派出所において被告人を逮捕状に基づき通常逮捕するとともに、検証許可状及び捜索差押許可状により、被告人の前記普通乗用自動車及び前記乙野方の被告人居室等を検証、捜索したところ、前記乙野方の被告人居室の東側六畳間の押入れに遺留されていた布団袋の中から、金メッキのマイナスネジ一個(原審検察官請求番号七六六、当庁昭和五八年押第四二号符号二六九号、以下「原審検七六六、符号二六九」と略記する。略記の要領はその余の証拠についても同じ。)を発見押収したのをはじめ、証拠物件を押収し、さらに同年九月一日に至って、道庁爆破事件を犯した容疑で再逮捕したものである。
五本件爆発物と被告人との結び付きについて
ところで、被告人は、本件事件について、捜査官の取調べに対しては黙秘する態度を貫いていたところ、原審公判段階からは、反日亡国の立場でいわゆる爆弾闘争を企画し、爆発物製造の準備をしていたことを認めながら、自分は道庁爆破事件には一切関係していない旨主張する。
そこで、原判決が、被告人を道庁爆破事件の犯人であると認定するにつき主要な証拠として指摘している被告人が逮捕の直前ころまで所持・管理し、その後逐次投棄し、あるいは居室等に遺留した各物件を中心に、本件爆発物と被告人との結び付きについて、順次検討を加える。
1 本件爆発物の容器と同形式の消火器の所持
関係証拠によると、本件爆発物の容器に使用された消火器は、前掲三の1(一)で述べたとおり、株式会社初田製作所が昭和四五年一月二三日から同年一二月二〇日ころまでの間に製造したハッタ式一〇LPI型消火器であるところ、被告人が札幌市郊外の幌見峠で投棄し、警察官により発見押収された二本の消火器(北大庁薬つ―三の二二五、原審検五八一、符号二五九及び北大庁工つ―三の八五九、原審検五八二、符号二六〇)も、右の期間に右初田製作所が製造した全く同型のハッタ式一〇LPI型であり、札幌市北区所在の北海道大学(以下「北大」と略称する。)薬学部及び工学部がそれぞれ所管の建物に設置して管理したものであるところ、被告人の言うところによれば、いずれも被告人が昭和五〇年一二月末ころ北大薬学部及び工学部からそれぞれ盗みだしたというのである。
そして、関係証拠によれば、北大薬学部が、昭和五一年八月から九月にかけて備付け消火器の調査をおこなった際、薬学部本館から三本のハッタ式一〇LPI型消火器の紛失が判明しており、このうちの一本が幌見峠で投棄された前記消火器(北大庁薬つ―三の二二五)であって、右消火器は、昭和五〇年七月二四日におこなわれた薬剤の詰め替えの際には存在が確認されていたというのであり、他方、幌見峠から発見押収されたもう一本の消火器(北大庁工つ―三の八五九)については、北大工学部B2棟一階の図書閲覧室前に備え付けられ、昭和五〇年一〇月から一一月にかけて、備付け消火器の機能点検を実施した際にその存在が確認されていたところ、その後紛失していることが翌五一年一月六日に発見されたというのである。したがって、いずれもその紛失時期等について被告人の前記供述と符合していることが認められる。そして、北大工学部においては、前記消火器(北大庁つ―三の八五九)の設置されていた工学部B2棟と棟続きの工学部Ⅰ棟一階土木工学科に備え付けられていた同型の消火器のうちの一本(北大庁工つ―三の九〇四)も前記機能点検時に存在が確認されていながら、その後昭和五一年三月末になって紛失していることが発見されたというのである。
このように、工学部の右二本の消火器については紛失の時期及び紛失場所が極めて近接していて、同一機会に盗まれた可能性も考えられること、紛失した前記消火器は、いずれも製造時から五年以上経過していて財産的価値に乏しく、換金目的のために持ち去られたとは考え難いこと、被告人が乙野方に遺留した物件及び投棄した物件などから窺われる被告人の爆発物製造の準備状況、ことに被告人の言うところによれば、旅行用時計等を利用した時限発火装置が完成の段階にあったというのに、爆発物の容器に利用しようと考えて昭和五〇年一二月ころ北大構内から盗んできたという前記消火器二本(北大庁薬つ―三の二二五、北大庁工つ―三の八五九)がその後昭和五一年八月初旬に投棄するまで七ヵ月以上も格別の加工を施すことなく被告人の手もとにおかれていたこと等の事情に徴すると、工学部Ⅰ練から紛失した消火器(北大庁工つ―三の九〇四)、あるいは薬学部その他北大構内で紛失した同型の消火器のうちの一本が、被告人によって盗み出されて加工され、本件爆体容器に使用されたことは、十分あり得ることと認められる。
2 爆薬の主剤である除草剤の所持関係証拠によれば、
(1) 被告人の間借り先である前記乙野方付近で被告人の動静を監視していた爆捜本部派遣の警察官は、昭和五一年八月七日午前八時半ころ、乙野方から遠からぬ札幌市北区北二三条西六丁目藤和北二四条レジデンス前のごみステーション(塵芥回収のための所定の集積場所)に、被告人が原判決別紙「投棄物一覧表」番号3記載のとおり、楠アンカ灰、木炭、軍手、竹べら、花柄ビニールシート及び花柄カーテン等の入ったダンボール箱を投棄したのを現認したので、これを収集して、同日夕刻、爆捜本部に持ち帰って領置手続をとり、爆捜本部は、右投棄物につき、道警本部刑事部犯罪科学研究所に、①塩素酸塩類など付着反応の有無、付着しているとすればその種類、②火薬類の成分付着の有無、付着しているとすればその種類、③木炭紛末、炭素末の有無等について鑑定を嘱託したこと、
(2) 同研究所の技術吏員山平真は、右嘱託の趣旨にもとづき、翌八日から各鑑定資料につき塩素酸イオン、塩素イオン、硝酸イオン、亜硝酸イオン、アンモニウムイオン、燐酸イオン、ナトリウムイオン、カリウムイオン及びカルシウムイオン等の付着の有無について検討をおこなったが、まず、外観検査からは、肉眼で観察して鑑定資料の殆んど全部に木炭の紛末が付着している状態が認められ、そのうち花柄ビニールシート(大きさ八三センチメートル×七〇センチメートル、鑑定資料二二)及び花柄カーテン(大きさ九八センチメートル×九二センチメートル、鑑定資料三三)の表面には、木炭の粉末様のものが付着しているのが認められ、実体顕微鏡で観察すると、数ミリグラム以下と思われる程度の微量の白色紛末様のもの(後に、同人の当審証言(第二三回公判調書)により、「半透明のもの」と訂正された。)の付着が認められたため、表面を払い落とし、水を含ませた脱脂綿をピンセットで挟んで拭きとり、水に浸すなどの方法で採取し、二〇〇ミリリットル入りのビーカー一杯くらいの純水の中にほぐして入れ、濾紙で漉して可溶部分と不溶部分に分けた上、それぞれ検査したところ、不溶部分からは硫黄と木炭末が検出され、他方、可溶部分の水溶液(これを濃縮したものを含め、以下試料という。)については、一〇ミリリットルくらいに濃縮したうえ検査したところ、硝酸銀試液法による塩素イオン及び塩素酸イオンの有無については
ⅰ 硝酸試液を用いて検査したところ、やや白濁を生じたが沈澱には至らず、塩素イオンの反応は疑陽性であること
ⅱ 硝酸銀試液及び亜硝酸ナトリウムを用いて検査したところ、白色の沈澱を生じ、塩素酸イオンの反応は陽性であること
がそれぞれ観察され、
次いで、右試料についてナトリウム、カリウムイオンを検査するため、右水溶液を約一ミリリットル取り分け、これを漸次濃縮し、それぞれの濃度段階で炎色反応検査を試み、最終的には濃度的一〇倍まで濃縮して検査したところ、
ⅲ ナトリウムイオン特有の黄色の炎色反応が視認され、反応は陽性であること
が判明し、
カリウムイオンの炎色反応検査では、ナトリウムイオンの炎色反応による妨害を除去するため、コバルトガラスを通じて、ナトリウムイオンの検査の場合と同様、それぞれの濃度の試料につき、検査を繰り返し試みたが、
ⅳ カリウムイオン特有の赤紫色の反応は、いずれの濃度においても視認できず、反応は陰性であること
が観察されたこと、
(3) 軍手(鑑定資料二三)についても、右と同様の検査をおこなったところ、塩素イオン及び塩素酸イオンの反応がいずれも陽性であったほか、炎色反応による検査結果はナトリウムイオン、カリウムイオンともに陽性であったこと(なお、山平真の原審証言(第五四回公判調書)では、この点に関する軍手の検査は、同研究所技術吏員本実が担当したというのであるが、当審証言(第二三回公判調書)では、山平も手伝って一緒におこなったという。)、
(4) 原審及び当審証人山平真(原審第五四回公判調書、当審第八回、同第二三回各公判調書)、原審証人本実(原審第五五回公判調書)が各供述するところを総合すると、鑑定に当たった山平は、鑑定嘱託の内容から判断して、鑑定嘱託の重点は塩素酸イオンの検出の有無にあると考え、その相手となる陽イオンがナトリウムであるか、カリウムであるかについては、エックス線回折によって確定する方針のもとに、その点の結論をしばらく留保することとし、爆捜本部の正式の鑑定依頼とは別に、爆捜本部の警察官高山智二から口頭で右各資料につき塩素酸イオンの付着の有無を知らせるよう依頼されていたため、同月八日午後、電話で右高山に花柄ビニールシート、花柄カーテン及び軍手に塩素酸イオンが付着していた旨連絡するとともに、上司へ翌日報告するのに備えて、電話通信用紙(当審検察官請求番号一七三、以下「当審検一七三」と略記する。略記の要領はその余の証拠についても同じ。)に当日おこなった検査結果を記載したこと、
(5) なお、軍手の付着物についてエックス線回折の結果、塩素酸カリウム及び塩化ナトリウムの存在が確認され、前記花柄ビニールシート及び花柄カーテンの付着物についても、右山平において、エックス線回折を試みようとしたが、最終的に蒸発乾固させた試料の残量が僅少であったため、エックス線回折にかけることは無理であると判断して、これを断念したこと、
(6) 以上の検査結果を踏まえて、右山平真、本実は共同で鑑定書(原審検七〇〇)を作成し、「3 鑑定の経過」の項の「(2) 付着物の検査」の項に、前記花柄ビニールシートと花柄カーテンについては、前掲ⅰないしⅲの検査とその結果を記載したが、ⅳは記載せず、「4 鑑定結果」の項には、前記軍手から塩素酸カリウム、硫黄、木炭末が検出されたことを記載したが、前記花柄ビニールシートと花柄カーテンからは塩素酸イオン、硫黄、木炭末が検出されたことを記載するにとどめ、炎色反応検査の結果(前掲ⅲ、ⅳ)は記載しなかったこと(なお、右高山は、山平からの電話連絡をもとに、右物件のほかに網篭からも塩素酸イオンが検出された旨捜査報告書に記載しているが、山平作成の前記電話通信用紙の記載等に徴し、高山作成の捜査報告書の右記載は誤りであることが明らかである。)、
以上の事実が認められる。
そして、後掲一二の4の(一)に詳しく検討するとおり、右山平のおこなった前記各鑑定資料の定性分析の方法は信頼性があり、同人の化学分析等の豊富な経験、慎重な鑑定態度等にも徴し、同人が右各鑑定資料につき前叙の鑑定結果を得たことは、十分信用することができると認められる。
しかして、関係証拠によれば、塩素酸イオンは陰イオンであるから、必ず陽イオンと結び付いており、化学上種々の陽イオンと化合物を形成するところ、当審証人梅澤喜夫は、塩素酸ナトリウム、塩素酸カリウムのほかに、臭素酸カルシウム、次亜塩素酸カリウム等として存在する可能性を指摘するが(第二四回公判調書)、検察官の捜査照会・同回答書(当審検一九三ないし一九六)によれば、臭素酸カルシウムは、新規化学物質と考えられるが通商産業省に未届のもの、次亜塩素酸カリウムは、新規化学物質として通商産業省に届け済みであるが既存化学物質名簿に登録されてはおらず、届出会社からの回答によっても製品として製造、販売の事実はないということであるから、これらの化合物を被告人が入手し得たとは考え難く、結局、一般に入手可能な化合物を前提とすると、塩素酸イオンは、実際上、ナトリウムイオンと結び付いて塩素酸ナトリウム、あるいはカリウムイオンと結び付いて塩素酸カリウムとして存在する以外にはあり得ないものと認められる。
さらに、原審証人本実(第五五回公判調書)、同岡元賢二(第八九回公判調書)の各供述、原審及び当審証人山平真の各供述(第五四回公判調書、当審第八回、第二三回各公判調書)、当審証人綿抜邦彦の供述(第一九回公判調書)等の関係証拠によれば、右鑑定において用いられた硝酸銀試液法は、日本工業規格で採用されている検査方法であり、また、ナトリウムイオン、カリウムイオンを炎色反応で確認する検査方法も同じく日本工業規格に採用されており、古典的ではあるが、簡易に実施できるアルカリ金属、アルカリ土類金属の定性分析方法として広く用いられていて、これらの検査方法自体には疑問をさしはさむ余地はなく、右各供述に加え、当審証人石川欽也の供述(第一八回公判調書)等をも併せ考えると、ある物質の水溶液について右の方法による定性分析の結果、塩化物イオンが疑陽性、塩素酸イオンが陽性、炎色反応によりナトリウムイオンが検出されたが、カリウムイオンは検出されなかったという場合に、亜硝酸イオンが存在しないことが明らかであれば、その水溶液中には塩素酸ナトリウムが存在することが推認できるところ、山平のおこなった本件花柄ビニールシートと花柄カーテンの付着物の定性分析の過程において、亜硝酸イオンがいずれも検出されなかったことは、山平証人の当審供述(第二三回公判調書)、同人作成の電話通信用紙(当審検一七三)から明らかである。したがって、後掲一二の4(一)で検討する考察の結果にかんがみると、前記の花柄ビニールシート及び花柄カーテンに塩素酸ナトリウムが付着していたことを推認することができる。
そして、関係証拠によれば、当時、純度の高い塩素酸ナトリウムがキログラム単位でまとまって一般に入手できるのは、化学実験用試薬を除き、高濃度塩素酸塩系除草剤(塩素酸ナトリウムを九八パーセント以上含有し、クサトール・デゾレート、クロレートソーダ、ダイソレート等の商品名で市販されていた。)のほかにはないことが認められる。
このように検討してくると、被告人は、本件事件の前後を通じて除草剤を入手したことはなかった旨、原審及び当審公判廷で供述しているけれども、被告人が爆弾闘争を志向し、時限式爆発物を製造しようとして、乙野方二階の居室において、旅行用時計を加工して時限製置を作り、木炭、硫黄等、混合爆薬の材料を多量に調達、保管していたことは自認するところであり、「東アジア反日武装戦線」の惹起した昭和四九年八月末の三菱重工ビル爆破事件など多くの爆弾事件において、除草剤を主剤とする混合爆薬が使用されたことが広く報道され、被告人が本件事件の発生の以前に入手していたことを自認する「腹腹時計」(技術篇)、「薔薇の詩」にも除草剤(塩素酸ナトリウム)を主剤とする爆発物の製造方法が図面入りで詳細に紹介されていること、高濃度塩素酸塩系除草剤は爆発物への利用が問題となり、昭和四七年六月法律一〇三号による毒物及び劇物取締法三条の四の新設及びこれに伴う同法施行令三二条の三の新設等により、本件当時はすでに、不正目的所持及びその情を知ってする販売、授与は体刑を含む刑事罰の対象とされ(同法二四条の四、二四条の二第二号)、製造元からの出荷も停止されて、その購入手続等の面でも規制されてはいたものの、被告人と密接な関係にあった前記加藤三郎は、爆発物を製造する目的で除草剤、硫黄等を入手していたが、昭和五一年七月初めの可児町事件でこれらを失い、しかも全国に指名手配されて逃亡中の身でありながら、同年九月ころには再び多量の除草剤、硫黄等を労せずして入手していること(当審証人加藤三郎の供述、第七回公判調書)等の事実にも徴すると、高濃度塩素酸塩系除草剤がそれまで一般に広く出回っていたこともあって、その入手は、実際には比較的容易であったと認められること、被告人が投棄した被告人手書きのメモ(原審検六五七、符号二〇三)、書籍類(原審検六五〇ないし六五三、符号一九六ないし一九九)などから窺知される除草剤を主剤とする混合爆薬についての研究ぶり、昭和五〇年末ころには既に爆体容器に利用できる消火器、多量の硫黄、木炭、さらには爆薬材料保管用の茶箱を少なくとも四個は入手していたことなど、被告人をとりまく状況事実を、前記山平鑑定の結果と総合して考察すると、本件事件当時、被告人は、高濃度塩素酸塩系除草剤を所持していたものと認めて誤りないというべきである。
3 本件爆発物に使用されたと同種の接着剤の所持等
関係証拠、とくに原審証人岡元賢二の供述(第五八回公判調書)、同人作成の昭和五一年八月二九日付(二通、原審検二四八、同二五二)、同年九月二〇日付(原審検二五〇)、同人ほか一名作成同月二一日付(原審検一九九)各鑑定書によると、本件爆発現場から押収された時計裏ぶた片(リン)(原審検一九四、符号九五、破片四個のうちの一個)、同時計の下板止めネジ(原審検一九七、符号一一〇)、積層乾電池の陽極端子(原審検二〇九、符号九八)及び電気雷管付属の被覆脚線を接続した中間スイッチの端子ネジ(原審検二二四、符号一〇三)のそれぞれの破片の一部には、エチルシアノアクリレート系の接着剤が付着していたところ、被告人が投棄した物件の中に、同じくエチルシアノアクリレート系の接着剤であるセメダイン三〇〇〇ゴールドの使いかけの二本(原審検六一九、符号一六五)、エチルシアノアクリレート系接着剤が付着したドライバー一本(検六一〇、符号一五六)が含まれていたことが認められる。もっとも、原審証人岡元賢二の前記供述及び同人作成の鑑定書(原審検二五二)によれば、被告人が所持していた接着剤五本(原審検六一九ないし六二二、符号一六五ないし一六八)のうち、エチルシアノアクリレート系の接着剤は、右のセメダイン三〇〇〇ゴールド二本のみであり、エチルシアノアクリレート系の接着剤は当時市販されていたものだけでも一〇種類にも及ぶから、前叙の事実から直ちに、被告人が手持ちの接着剤セメダイン三〇〇〇ゴールドを用いて本件爆発物を加工したとみることはできないにしても、被告人が本件爆発物を製造に関与したことを推認させる一つの状況証拠であるといえる。
また、関係証拠(原審証人岡元賢二の供述(第六一回公判調書)、同人作成の昭和五一年一〇月九日付鑑定書(原審検七五〇)等)によれば、本件爆発物の時限装置を、爆体容器である消化器の上部に固定するために使用したと推認されるビニールテープの存在が認められる(原審検七三、八四、八五、八三、八二及び二一二、符号一一八、一一ないし一四、一三八の一、二)ところ、これらのビニールテープは、被告人が投棄した茶箱四箱(原審検五六九・五七〇、七一七、七三六、七四四、符号二四七、二四八、二五三、二八二、二五八)の目張り用に貼ったビニールテープと類似しており、この事実も、その余の証拠とともに被告人の本件爆発物の製造への関与を推認させる一つの状況証拠であると言える。
4 被告人の居室にあったマイナスネジと本件爆発物の時限装置との関係
関係証拠によると、ツーリスト〇二四には、本来、ケース止めネジ二本(いずれもプラスマイナス兼用ネジ)、下板止めネジ三本(いずれもプラスマイナス兼用ネジ)及びリン止めネジ二本(いずれもマイナスネジ)が使用されているが、本件でツーリスト〇二四を時限装置として利用するに当たっては、ケースを取り外した状態で使用したと認められるから、ケース止めネジ二本(プラスマイナス兼用ネジ)は除かれ、その余の五本のネジ(プラスマイナス兼用ネジ三本とマイナスネジ二本)が使用されていたはずであるのに、本件爆発現場からは、時限装置の工作に当たり何等手を加える必要がなく、本来の用法どおりに下板止めに使用されていたプライスマイナス兼用ネジ二本(原審検一八八、一九七、符号九〇、一一〇参照)のほかに、本来ケース止め用に使われていたと推認されるプラスマイナス兼用ネジ二本(原審検一九〇、一九六、符号九二、一〇九)がリン止め用に使われているのが発見されたのに対して、本来リン止め用に使用されているはずのマイナスネジ二本及び下板止め用のプラスマイナスネジの残余の一本が、いずれも発見されなかったこと、しかして、ツーリスト〇二四に使用されている各ネジについては、長さ、外径等に若干の差はあるものの、ネジのピッチは同じであるから、相互に転用することは可能ではあるが、製造の工程において、本来のリン止め用マイナスネジの代わりにプラスマイナス兼用ネジを誤用することはあり得ず、仮に何らかの理由により紛れ込んで使われたとしても、最終工程に至るまでに、幾重にもわたってチェックされるため、本来リン止め用に使用されるべきマイナスネジとは別のプラスマイナス兼用ネジが取り付けられて、そのまま出荷されることはあり得ないこと、したがって、本件ツーリスト〇二四の場合、時限装置として工作するためリン止め用のマイナスネジを取り外して工作を加えた者が、誤って、あるいは、何らかの事情により、もともと取り付けてあったマイナスネジの代わりに、他の部分に取り付けてあったプラスマイナス兼用ネジを取り付けたものと認められること、また前記のとおり下板止めネジ三本については、時限装置のための工作の工程においてこれを取り外す必要はなく、内二本についてはそのまま手が加えられていないことが証拠上明らかであるから(原審検一八八、一九七)、行方不明の残る一本についても、これが取り外されてリン止めネジの代わりに使用された可能性は極めて少ないと認められるのであって(本件爆発物の飛散状況や現場の混乱等にかんがみると、所在のわからない下板止めネジ一本は、発見困難な場所に飛散し、亡失したものと推認される。)、結局、本来ケース止めに使われていたプラスマイナス兼用ネジ二本がリン止め用に転用されたものと推認することができる。
他方、関係証拠によれば、爆捜本部は、前記のとおり、被告人を逮捕すると直ちに、前記乙野次郎方二階の被告人の居室の検証及び捜査を実施し、東側六畳間に遺留されていた被告人の布団袋の中から掛布団等を取り出し、さらに布団袋の中を子細に検分したところ、塵の中にツーリスト〇二四のリン止めネジと同規格の、ドライバーでつけたと思われる痕跡が頭部に残されたマイナスネジ一本(原審検七六六、符号二六九、以下「本件ネジ」という。)を発見、押収したこと、ツーリスト〇二四は、前叙のように全部で四〇〇三個製造されたが、札幌には昭和五〇年一一月と昭和五一年一月の二回、各五〇個づつ計一〇〇個が、リズム時計工業株式会社から直接出荷されたこと、本件ネジと同規格のネジは、同社製の小型置目覚時計(旅行用時計を含む。)のリン止め用として、その用途に応じて特別に設計された独自の規格品であるところ、時計製造の工程においては、本件ネジのように頭部に傷のあるネジは、検査の際不良部品としてはねられるから、本件ネジが時計に取り付けられたまま商品として出荷されたとは考え難いこと、したがって、これらの事実から判断すると、本件ネジの頭部の傷は、被告人が何らかの理由で同社製の小型置目覚時計のリン止めネジをドライバーでいじった際につけたものと推認されることが、それぞれ認められる(リズム時計工業株式会社益子工場工場長吉村新作成の鑑定書及び原審証人吉村新の供述、第四九回公判調書)。
被告人は、原審において、自分はリズム時計工業株式会社製の旅行用時計コンパクトアラーム・スピネット(以下「スピネット」という。)に工作して時限装置を作ったが、この時限装置は、昭和五一年七月末ころ、警察の手入れをおそれて投棄してしまったと弁解して、同社製の旅行用時計を利用して時限装置を作っていたことを自認し、本件ネジは右時限装置の工作の際に取り外された可能性を示唆しながら、工作したのはツーリスト〇二四ではなく、これとは種類の異なる旅行用時計スピネットであると主張するが、時限装置として工作したスピネットをいつ、どこで入手したかについては、原審及び当審において繰り返し質されても、小幡荘にいるころ道警爆破事件の少し後に入手した、などと述べるにとどまり、具体的入手時期、入手先にについては明らかにすることをかたくなに拒み、結局、被告人の右弁解を裏付ける客観的証拠は、まったくないままである。
このように、証拠上、乙野方二階の被告人の居室に遺留された被告人の布団袋の中から本件ネジが発見されたことは動かし難い事実であると認められるところ、本件時限装置に用いられたツーリスト〇二四については、リン止め用のマイナスネジが取り外され、これに代えてケース止めに用いられていたと推認されるプラスマイナスネジが取り付けられているという、特異なネジの用い方がされていたのであるから、右ツーリスト〇二四のリン止め用マイナスネジに適合する本件ネジが乙野方二階の居室に遺留された被告人の布団袋の中から発見されたことは、被告人の弁解にもかかわらず、被告人が本件時限装置の工作、延いては本件爆発物の製造に関与したことを推認させる有力な状況証拠であるというべきである。
5 被告人所持の簡便ナイフホールダーから切り取られた鉄板片の行方
関係証拠によると、本件爆発物の時限装置として使用された旅行用時計ツーリスト〇二四のリン内側には、幅一ないし五ミリメートル、長さ三ないし四センチメートルの広さに接着剤が付着していたところ(これが被告人の所持していた接着剤セメダイン三〇〇〇ゴールドと同じエチルシアノアクリレート系接着剤であることは、すでに述べたとおりである。)、本件時限装置の構造からすると、同時計のリンの内側に接着剤によって小さな金属片が貼付され、これが通電の接点とされていたと認められること、他方、被告人が投棄した物件中から、簡便ナイフホールダー二個(原審検六一四、符号一六〇及び原審検六一五、符号一六一)が発見押収されたが、そのうちの一個(原審検六一五、符号一六一)は、刃を固定する取付け部分が柄に近い根元から切断されて欠けていたこと、そして、これとは別に右簡便ナイフホールダーの刃を固定する取付け部分の一部と認められる二つ折りになった幅約五ミリメートル(本来幅が一センチメートルであるから半分に切断されたと思われる。)、長さ約四センチメートルの鉄板片一個(原審検一〇二九、符号二八一)が、被告人の投棄物件中から発見押収されたが、中島富士雄作成の鑑定書(原審一〇三二)によれば、これらは被告人が所持していた金切りはさみ(原審検六〇三、符号一四九)を用いて簡便ナイフホールダー(原審検六一五、符号一六一)の刃を固定する取り付け部分の根元から切断し、かつ、右取付け部分を縦長に切断したものと認められること、本来、簡便ナイフホールダーの該部分は二重になっているので、右の切断によって、被告人の手許には、前記鉄板片一個のほかに、幅約五ミリメートル、長さ約四センチメートルの鉄板片二枚が残ったはずであるのに、これら二枚の鉄板片は発見されていないこと、しかも、先に認定した本件爆発物の時限装置の構造よりすれば、未発見の鉄板片は、その形状、通電性などに徴し、十分接点として使用可能であるのみならず、右鉄板片が、前記のように、被告人の所持していた右金切りばさみによって右簡便ナイフホールダーから切断されたと認められるからには、その所在あるいは用途を、被告人は当然に知っているはずであるのに、原審において、検察官の質問に対してはもとより、弁護人の質問に対しても、これらの点につき供述を拒否して、明らかにしようとしなかったことがそれぞれ認められる。そして、原判決がこのような被告人の態度をとらえて、被告人が供述を拒否するのは、「未発見の鉄板片二枚の行方について合理的説明をなし得ないからであると思われる。」とし、被告人が未発見の鉄板片を本件爆発物の時限装置の接点に使用したと推認しても不合理ではない旨指摘したのに対して、被告人は、控訴趣意書において、右鉄板片の行方について言及し、右簡便ナイフホールダーから切断した未発見の鉄板片の一部は時限装置として工作したスピネットのリンに接点として使ったと主張する(被告人提出の控訴趣意書・第一の六)とともに、当審においても右の主張に沿う弁解をおこなっている(第三七回公判)。
しかし、前述したように、被告人は、原審公判廷において、右スピネットを使用して時限装置を完成させ、テスターで通電性について実験したが、この時限装置は昭和五一年七月末ころ警察の手入れをおそれて捨てたことまで明らかにしているのであるから、もし被告人の前記弁解のとおりであるとするならば、簡便ナイフホールダーから鉄板片を切断して右時限装置の接点として使用したこと、及びその後右時限装置とともに投棄したことについて、原審段階において、ことさら供述を拒否する必要はまったくなかったはずであり、また、可児町事件の発生を知った被告人が時限装置を所持していることに危険を感じてこれを投棄したのが真実であるとすれるならば、原判決も指摘するとおり、何故に時限装置の接点に使用した鉄板片を切り取った痕跡の残っている簡便ナイフホールダーや鉄板片の残余部分を一諸に投棄しないで手もとに残しておいたのかという疑問が残り、被告人のこのような弁解は、かえって、スピネットを利用して作った時限装置を投棄したというのは虚偽であり、実は、未発見の鉄板片はツーリスト〇二四を利用して作った本件爆発物の時限装置の接点に使用されたのではないかという疑いを強く抱かせると言わざるをえない。
6 爆発物製造に必要なその他の材料、工具等の所持
以上1ないし5において、被告人が所持していた物件の中から、本件爆発物に結び付く主要な物件を摘記したうえ検討を加えたが、被告人は、このほかにも、混合爆薬の材料である硫黄(原審検五七一、七一六、符号二四九の一ないし四、二五二)、木炭(原審検七一九、七二〇、符号二五五、二五六)、アンカ灰(原審検六七六、同六七七、符号二一六、二一七)等を所持し、防湿のための容器として茶箱(原審五六九、五七〇、七一七、七三六、七四四、符号二四七、二四八、二五三、二八二、二五八)、時限装置付き爆発物製造の材料、工具に利用できる電気ハンダこて(原審検六〇一、符号一四七)、金切はさみ(原審検六〇三、符号一四九)、ラジオペンチ(原審検六〇六、符号一五二)、ドライバー(原審検六〇七ないし六一二、七五九、符号一五三ないし一五八、二八三の一、二)、ヤスリ(原審検六二四、同六二五、符号一七〇、一七一)、ピンセット(原審六二六、符号一七二)等、さらに豆電灯(原審検六二三、符号一六九)、計量カップ(原審検六八一、符号二二一)、爆体容器の補強に利用できるビニール袋入りセメント(原審検九三六、符号二四五、二四六)、乾電池(原審検六一八、同九四六、同九四七、符号一六四、二三七、二三八)、通電検査用のテスター(原審検六三二、符号一七八)等をも所持していたことが証拠上明らかであり、そのうち金切はさみ、テスター等は相当使い込まれた形跡が窺われる。
7 爆発物製造に必要な知識の取得
岡元賢二ほか二名作成の鑑定書(原審検二三四、二三六)、証人中島富士雄の原審証言(第七回公判調書)、「腹腹時計」(技術篇)写(原審検一二四二)等に徴すると、本件爆発物は、ⅰ塩素酸ナトリウム(除草剤)、木炭、硫黄を、重量比七五対一五対一〇の割合で混合して爆薬を調合し、ⅱ消火器の薬剤等を取り除き、導線用の孔を穿って爆体容器として加工し、ⅲ旅行用時計ツーリスト〇二四に工作して時限装置を製作し、ⅳ爆体容器に混合爆薬を充填して、電気雷管を装着して乾電池と導線で結んで電気回路をつくり、その間にⅲで製作した時限装置を施したものであるところ、被告人の投棄物件中には、押収にかかる「火薬類保安責任者試験問題と解答」(原審検六五〇、符号一九六)、「火薬類取扱製造保安責任者問題と受け方」(原審検六五一、符号一九七)、「爆破 全訂新版」(原審検六五二、符号一九八)、本の切取り(爆弾教本「栄養分析表」)(原審検六五三、符号一九九)、「中国軍事教本」(原審検六五四、符号二〇〇)、「危険物取扱者読本」(原審検六五五、符号二〇一)、「毒物劇物取扱主任者試験問題集」(原審検六五六、符号二〇二)及び爆薬について研究のあとを窺わせる被告人作成のメモ一二枚(原審検六五七、符号二〇三)等があり、右のほかに爆弾製造の教本「薔薇の詩」及び「腹腹時計」(技術篇)の双方を入手していたことについては、被告人においても自認しており、これらには本件爆発物と同様の塩素酸塩を主剤とする混合爆薬を用いる時限爆弾の製造方法について詳細な記述があり、証人中島富士雄の原審供述(第七回公判調書)及び証人加藤三郎の当審供述(第七回公判調書、第二七回公判)にかんがみれば、後掲一二の3で検討するように、本件のような除草剤を主剤とする爆発物及び旅行用時計を用いた時限装置の製造にはそれほど高度の知識、技能を要せず、材料さえ入手できれば、前記の各教本などに従って作業を進めることにより、比較的短期間に完成させることが可能であり、したがって、被告人が「腹腹時計」(技術篇)、「薔薇の詩」などを入手した時期は必ずしも明確ではないが、たとえ被告人が供述するとおり、昭和五一年一月中旬ころに、被告人を訪ねてきた前記加藤からこれらを入手したものとしても、被告人の爆発物に関する知識の習得状況及び材料入手の状況等を考慮すると、被告人が道庁爆破事件に用いられた本件時限装置付きの爆発物を製造することは、時間的にも十分可能であったと認められる。
8 小括
以上のとおり、被告人は、本件事件の爆発物の爆体容器に用いられたハッタ式一〇LPI型消火器と同種、同型の消火器二本を本件事件発生の約二か月前、北大構内から盗み出して所持していたこと、本件の爆発物の混合爆薬の主剤である塩素酸ナトリウムが被告人の所持ないし保管していた物件に付着していたことが推認され、被告人を取りまくもろもろの状況を併せ考えると、被告人が高濃度塩素酸塩系除草剤を所持していたと認められること、また本件爆発物に用いられたと同種の使いかけの接着剤、本件爆発物に用いられたと類似のビニールテープを目張り用に貼った茶箱をそれぞれ所持していたこと、被告人が乙野方二階に遺留した布団袋の中からリズム時計工業株式会社製の小型置目覚時計(ツーリスト〇二四等、旅行用時計を含む。)のリン止め用のマイナスネジ一本(同社独自の仕様のもの)が発見され、しかも、本件時限装置に利用されたツーリスト〇二四のリン止め用ネジにはプラスマイナス兼用ネジが使われていて、本来リン止めに用いられているはずのマイナスネジは発見されていないこと、被告人の投棄物の中に刃の支持部の一部が切り取られた簡便ナイフホールダーがあるところ、その切り取られた部分(鉄板片)は本件の時限装置の接点に用いられた疑いが強く持たれること、その他、本件爆発物と同種の爆発物の製造に必要ないし有用な材料、工具類を取り揃えて所持し、そのうちテスター、金切はさみ等は相当に使い込まれた形跡が窺われることに加えて、被告人が所持していたことを自認する「腹腹時計」(技術篇)、「薔薇の詩」、被告人が投棄した文献、メモ類等に徴し、被告人は爆発物製造に必要な知識を十分習得していたことが、それぞれ認められる。
これらの事実を総合すると、被告人と本件爆発物との結び付きは、極めて濃厚であるというべきである。
六道庁爆破事件に関する犯行声明文と被告人との結び付きについて
1 道庁爆破事件の犯行声明文
(一) 犯行声明文発見の端緒
原判決挙示の各証拠及び当審における事実取調べの結果によれば、本件犯行声明文は道庁爆破事件の犯人によって作成され、前記コインロッカーに置かれたものであることが明らかであると認められる。
すなわち、前掲四の1に述べたとおり、道庁爆破事件の発生を知った道警本部は、昭和五〇年七月に発生した道警爆破事件の犯行声明文が札幌市営地下鉄大通駅に設置されたコインロッカーに入れられていたことから、本件爆破事件についても犯行声明文が同駅付近のコインロッカーに入れられている可能性があると判断し、事件発生から間もない本件事件当日の午前九時五〇分ころから所属の警察官を同駅に派遣して、設置してあるコインロッカー付近を巡回監視させた。他方、同日午後零時四〇分ころ、北海道新聞本社政治経済部の直通電話に若い男の声で、「大通駅コインロッカー三一番に声明文が入れてある。東アジア反日……戦線」との通告があったため、同新聞社では、警察へ通報するとともに、所属の新聞記者を同コインロッカー付近に急行させ、同所を監視中の警察官にその旨を告げ、同警察官は道警本部の指示により、同日午後一時二〇分ころコインロッカー管理会社係員立会のもとに、同駅に設置されたコインロッカー三一番を開けたところ、右通告のとおり、本件犯行声明文(原審検五四四、符号二六四)が発見された。
そして、原判決が説示するとおり、警察官のコインロッカーの監視状況、右コインロッカーの開閉可能時間、開錠度数を示す右コインロッカーの表示等からすると、右三一番のコインロッカーは、当日午前六時以降午前一一時ころまでの間に少なくとも一回は開閉されていることが明らかであるが、それ以後は、警察官が開けるまで開閉されていないこと、また、本件犯行声明文は、テープライターと片仮名文字盤及びアルファベット細文字盤を使用して文字(片仮名六二六字、アラビア数字三字の合計六二九字)を黒色テープに打刻し、これを横列二七行にしてB5版のレポート用紙二枚を継ぎ足した台紙に貼り付けたものであって、実験の結果、右犯行声明文の文字を一人で連続して打刻すると約一時間五〇分を要し、これに文案起草、打刻されたテープの貼付、完成した犯行声明文の運搬、コインロッカーへの収納等にかかる時間をも考慮すると、本件爆破事件が発生してから本件犯行声明文を作成して午前一一時ころまでに右コインロッカーに収納することは、時間的に困難であることが認められる。
したがって、本件犯行声明文は、本件事件の犯行計画に係わり、本件の爆破が本件当日の午前九時ころに実行されることを事前に知っていた犯人が、犯行の以前に予め作成しておき、それを右ロッカーに収納したものと推認することができる。
(二) 犯行声明文に記載された「*」印記号
ところで、本件犯行声明文には、横列二七行中の第一一列、第一四列及び第二二列の各行頭の一字分や空白三か所に、約四ミリ角大の「*」印記号が、台紙面に直接二個、第二二行目には台紙に貼ったセロテープの上から一個の合計三個が細書きの黒ボールペンを使って手書きされているが、他方、被告人が所持していたが後に投棄したと認められる書籍等のうち、「北方ジャーナル」一九七五年六月号(原審検六三八、符号一八四)に二個、「日本古代史九九の謎」(原審検六三九、符号一八五)に三個、「天皇家はどこから来たか」(原審検六四〇、符号一八六)に五個、「朝鮮人強制連行、強制労働の記録」(原審検六四七、符号一九三)には一三九個、その他、「火薬類保安責任者試験問題と解答」(原審検六五〇、符号一九六)、「爆破」(原審検六五二、符号一九八)、「ノート紙(黒字ボールペンで記載のあるもの)」(原審検六五七、符号二〇三、「犯罪鑑識一一」(原審検六六一、符号二〇七)及び「本の切取り」(原審検六六二、符号二〇八)等にそれぞれ手書きの「*」印記号が記入されており、そして、逮捕後の昭和五一年一〇月一二日に、取調警察官からの求めに応じて、被告人がメモ(原審検九七二、符号二六八)を作成した際にも、「*」印記号を用いていること(原審証人桑原一夫の供述、第三九回公判調書)等の事実に照らすと、被告人は、北海道において爆弾闘争を志向してその準備をすすめていたことを自認する本件事件当時、書籍類に書き込みを入れ、あるいはノートなどをとる際に、「*」印記号を常用する習癖があったことが認められ、このことは、被告人と交際の深い前記加藤も当審公判廷において認めるところである(第七回公判調書)。
しかして、原審で採用された本件犯行声明文中の「*」印記号の筆跡に関する諸鑑定(原審証人金丸吉雄の供述(第三九回ないし第四二回各公判調書)及び同人作成の鑑定書三通(これらを併せて、以下「金丸鑑定」という。)、原審証人馬路晴男の供述(第四三回、第四四回各公判調書)及び同人作成の鑑定書(これらを併せて、以下「馬路鑑定」という。)、原審証人木村英一の供述(第一二〇回公判調書)及び同人作成の昭和五四年四月三〇日付鑑定書(これらを併せて、以下「木村筆跡鑑定」という。)及び原審証人長野勝弘の供述(第一一三回公判調書)及び同人作成の鑑定書(これらを併せて、以下「長野鑑定」という。))中、金丸鑑定は、結論として、被告人が手書きした「ノート紙(黒ボールペンで記載のあるもの)」(原審検六五七、符号二〇三)の中に記入された「*」印記号と本件犯行声明文中の「*」印記号の各筆跡は、筆跡学的に同一性格であって、同一人物による筆跡として矛盾の無いものと思料すると言い、また、馬路鑑定は、本件犯行声明文中の「*」印記号の筆跡と「朝鮮人強制連行、強制労働の記録」(原審検六四七、符号一九三)、「ノート紙(黒ボールペンで記載のあるもの)」(原審検六五七、符号二〇三)、「メモ(B4版上質紙に記載のもの)」(原審検九七二、符号二六八)に記入された「*」印記号の筆跡とは、その書かれている周囲の状況や書きぶりなどからみて、同一人のものとするのが妥当であり、特に否定する強硬な条件は見当たらない、とするのに対して、木村筆跡鑑定は、調査したところ、本件犯行声明文、「ノート紙(B4版上質紙に記載のもの)」、「朝鮮人強制連行、強制労働の記録」、「北方ジャーナル」一九七五年六月号(原審検六三八、符号一八四)、「過激派壊滅作戦」(原審検一一七四、符号三三八)中に各記載された「*」印記号は同一人によって書かれたとする積極的な結果は得られなかったが、いずれも類似の傾向は認められるとし、長野鑑定は、本件犯行声明文中に記載されている「*」印記号と「朝鮮人強制連行、強制労働の記録」、「ノート紙(黒ボールペンで記載のあるもの)」、「メモ(B4版上質紙に記載のもの)」及び「過激派壊滅作戦」中に手書きされている各「*」印記号が同一人によって記載されたものであるかどうかは不明であるという結論を出している。
案ずるに、鑑定対象となった本件犯行声明文中の「*」印記号は僅か三個にすぎないこと、金丸鑑定及び馬路鑑定は、いわゆる伝統的筆跡鑑定の手法によるもので、鑑定人の経験や勘に依存するところが大きく、その証明力には自ずと限界があることは否めないのみならず、木村筆跡鑑定、長野鑑定の結果等に照らすと、これら筆跡鑑定の結果からただちに犯行声明文中の「*」印記号が被告人によって記載されたと断定することはできない。しかしながら、いずれの鑑定とも異筆を示唆するものはなく、後に検討するように、金丸鑑定及び馬路鑑定が本件犯行声明文の「*」印記号と被告人の記入した「*」印記号との筆跡の同一性について肯定的な鑑定結果を出すに至った根拠のうち、本件犯行声明文の「*」印記号の筆順と被告人の書いた「*」印記号の筆順がおおよそ同一のものが多いと認められること、本件犯行声明文と対照資料の「*」印記号の大きさがだいたい揃っていること、いずれの「*」印記号とも字、行の頭に記入されていることなどの共通性が認められることは、客観的観察の結果として、肯認することができる。
しかも、被告人が所持していたと認められる前記書籍等に記入されている「*」印記号は、いずれも黒色インクのボールペンで記入されているところ、本件犯行声明文中の「*」印記号もまた黒色インクのボールペンで記入されており、木村英一作成の昭和五一年一二月六日付鑑定書(原審検一一六二)及び同証人の原審証言(第八七回公判調書)によれば、本件犯行声明文中の「*」印記号を記入したボールペンのインク及び前記「朝鮮人強制連行、強制労働の記録」中に被告人が「*」印記号を記入したボールペンのインクは、被告人が所持していたと認められるボールペン中芯(原審検一一五八、符号三三七)のインクと成分が同種であると推認されるというのである。
(三) 犯行声明文の内容と被告人の爆弾闘争の目的等
本件犯行声明文の内容は、原判決の別紙声明文記載のとおりであるが、他方、関係証拠によれば、被告人は岐阜大学教育学部を卒業するころから前記加藤三郎と知り合い、同人が中心となって活動していたコンミューン美濃加茂の学習会に参加して、太田竜著「辺境最深部に向って退却せよ」、「アイヌ革命論」等の著作を読んで深く影響を受け、さらに、底辺階層社会の生活実態を体験するために、右加藤とともに名古屋、大阪の飯場などで肉体労働に従事するうち、次第に、アイヌ、朝鮮人、沖縄などの問題に関心が拡大し、昭和四八年四月には、「日本帝国主義のアイヌモシリ占領の状況を調査するため」来道して、約二か月間沙流郡二風谷などに滞在し、昭和四九年六月には、「アイヌモシリ侵略を討つ闘いのため」北海道に移り住み、同年八月末の三菱重工ビル爆破事件などに刺激されて爆弾闘争を志向するようになり、翌五〇年六月には「アイヌモシリ侵略の中枢機関」の集中する札幌に移って、着々爆弾闘争の準備を進めていたもので、被告人が傍線を引き、あるいは「*」印記号を付するなど熟読の跡が窺われる前記「北方ジャーナル」一九七五年六月号、「本の切取り」(太田竜「世界革命への新しい出発」、雑誌「流動」一九七五年三月号)(原審検六四三、符号一八九)、「本の切取り」(太田竜「狼の三菱爆破と自民党政府の動揺」)(原審検六四四、符号一九〇)、「本の切取り」(太田竜「テロルなき自立の陥穽」、雑誌「現代の眼」一九七四年一一月号)(原審検六四五、符号一九一)、「本の切取り」(太田竜「東アジア反日武装戦線の曳光」)(原審検六四六、符号一九二)、前記「朝鮮人強制連行、強制労働の記録」と後掲九に認定する被告人の言動などを併せ考えると、本件犯行声明文の内容は、被告人のアイヌ問題等に対する立場と傾向を共通にすると認められる。
2 道警爆破事件の犯行声明文及び通告電話を介した結び付き
(一)道庁爆破事件の犯行声明文に使われたテープライターの打刻文字と、道警爆破事件の犯行声明文に使われたそれとの対比
木村英一作成の各鑑定書(原審検八八九、一〇〇一、当審検七九、一八五)、同証人の原審(第四六回、第四八回各公判調書)及び当審(第二〇回、第二一回各公判調書、第二九回公判)の各供述によれば、
ⅰ 道庁爆破事件及び道警爆破事件の両犯行声明文は、いずれも、テープライターを用いて幅九ミリメートルの黒色テープに打刻された片仮名文字を台紙に張り付けたもので(前者については、一部数字を含む。)、右片仮名文字はダイモジャパン・リミテッド社製で金型キャビティ1によって成型された片仮名文字盤(以下「片仮名文字盤(キャビティ1)」という。これに対して、同社製で金型キャビティ2によって成型された片仮名文字盤を、「片仮名文字盤(キャビティ2)」という。)を用いて打刻されたものであり、両犯行声明文の文字の大きさ、形状等が一致しており、しかも、いずれの声明文についても打刻文字中の「ヨ」の字は縦画が完全に白化せず、「ミ」に見間違えるものがあるのみならず、両者に共通する文字三二種について、子細に対比すると、文字の画線内にある痕跡、白化の程度、隆起の程度、画線辺縁の形状とその鮮明さ等において、「セ」、「り」を除く(この二文字については、道警爆破事件の犯行声明文の打刻文字が不鮮明であるため対比ができない。)三〇種の文字合計五六二字のすべてに共通する特徴点が合計八九か所も認められたのに、両者に共通しない独立の特徴点は全く認められなかったこと、
ⅱ 各犯行声明文の打刻文字中の濁点の左側の点には、共通の特徴的な黒色斑点が出現するので、同社製のテープライター二八台と片仮名文字盤二〇〇枚(片仮名文字盤(キャビティ1)一〇〇枚及び片仮名文字盤(キャビティ2)一〇〇枚)を用いてテープ上に打刻した対照試料の濁点を比較検討すると、片仮名文字盤(キャビティ1)と同(キャビティ2)では、打刻によって出現する濁点中の黒色斑点の存否、数量、形状、位置等が、全く異なっており、また、各テープライターによっても微細に異るが、右両声明文の濁点と全く同じ特徴を持つ濁点の出現は認められなかったこと、そこで、片仮名文字盤(キャビティ1)二〇枚、テープライター五台を用いて、前記二通の犯行声明文に共通して使用されている三二種の文字(ただし、前記の理由により、「セ」、「リ」の二文字を除く。)を打刻して対照用試料文字を作成し、実体顕微鏡により比較検討したところ、打刻された各文字には、同一文字盤を用いて打刻する限り、テープライターの異同にかかわりなく同じ特徴が出現することから、打刻された文字の特徴的な形状は、主として文字盤に影響されることが判明したこと、そこでさらに、対比試料を増やして検討することとし、昭和四九年四月以前に製造された片仮名文字盤(キャビティ1)一〇〇枚を用いて両事件の犯行声明文と共通する三二種の文字(ただし、「セ」、「リ」を除く。)を打刻し(文字盤一枚につき右三二種の文字を五個ずつ、一文字あたり五〇〇個)、前記の対照用試料文字と併せて、各犯行声明文中の打刻文字と比較検討すると、試料文字中、少なくとも「テ」、「ン」、「コ」の文字(後に増やした試料文字の場合には「サ」の文字を含む)については、両犯行声明文中の打刻文字と共通する特徴的形状は見い出すことができなかったこと、
がそれぞれ認められ、その結果、
ⅲ 各犯行声明文の打刻文字中前記の「テ」、「ン」、「コ」、「サ」に認められる特徴点は、犯行声明文を打刻するのに用いられた片仮名文字盤固有のものであると認められ、右両犯行声明文はいずれも同社製の片仮名文字盤(キャビティ1)のうちの特定の文字盤によって打刻された可能性が強いと結論することができる、というのである。
右鑑定結果は、その打刻文字の比較の手法等に徴し、十分信頼できるものと思料される。
(二) 道警爆破事件の通告電話の送話者の音声と被告人のそれとの対比
関係証拠によると、道警爆破事件は、昭和五〇年七月一九日午後一時五七分ころ発生したが、「東アジア反日武装戦線」を名乗る者から、札幌市営地下鉄大通駅コインロッカー一八番に犯行声明文が入れられている旨の通告電話が、第一回目は、同日午後四時二七分ころ道警本部へ、第二回目は、同日午後四時五七分ころ中央署へ(なお、同署へは道警本部の電話交換手が受信してつないだ。)、そして第三回目は、同日午後六時二五分ころ朝日新聞北海道支社へそれぞれ■■■■れらの通告電話は、道警本部及び中央署ではカセットテープ(当審検八三、符号三五六)に、朝日新聞北海道支社ではアンサーホン録音テープ(当審検八四、符号三五七)に、それぞれ録音されたこと、また、道警本部は、右通告電話で指摘されたコインロッカー一八番を捜索したところ、同日午後六時一〇分ころ、「東アジア反日武装戦線は本日アイヌモシリを植民地支配している日本帝国主義者北海道警察に対し本部爆破攻撃を決行した」(原文は全文片仮名文字)と記載された犯行声明文(当審検八〇、符号三五五)が発見されて押収されたことから、警察庁科学警察研究所に対して、右各通告電話の送話者の音声の録音テープにつき、鑑定を依頼したところ、同研究所法科学第二部物理研究室長鈴木隆雄は、右各録音テープの音声の声紋の対比等から、「第一回通告電話の送話者の音声と第二回通告電話の送話者の音声とは、同一人の音声である可能性が極めて大きい。第一回及び第二回通告電話の送話者の音声と第三回通告電話の送話者の音声とは同一人の音声である可能性が大きい。」旨の第一鑑定をまとめて提出したこと、さらに道警本部は、昭和五一年九月二六日中央署の取調室において、取調べ中の被告人の音声をマイクロフォンを用いてカセットテープ合計六本(当審検八九、九〇、符号三五八、三五九)に録音し、これら録音した被告人の音声と前記通告電話の送話者の音声との異同識別について鑑定を依頼し、右木村は、「第一回及び第二回の通告電話の送話者の音声と被告人の音声とは、同一人の音声である可能性が極めて大きい。第三回通告電話の送話者の音声と被告人の音声とは、同一人の音声である可能性が大きい。」旨の第二鑑定を出したものである。
本件の鑑定資料の録音条件がそれぞれ異なるため、その比較対照に当たっては補正が必要であったこと、声紋比較の対象とする音声は可及的に多いことが望ましいが、本件では録音が比較的鮮明でかつ最も特徴が現われ、しかも各資料に共通する発音の個所を選んだため、三個の発音のみ比較の対象としたこと、その他、後に述べる声紋研究の現状等にかんがみると、右鑑定の評価は慎重を要するが、当裁判所において前記通告電話の録音テープを再生聴取して証拠調したところ、特に第一回の通告電話の送話者の音声は、被告人のそれによく似ており、この事実と右声紋鑑定の結果を併せみると、道警爆破事件の犯行声明文の通告電話の送話者の音声は、被告人の音声と類似しているということができ、このことから、被告人が道警爆破事件の犯行声明文の作成に関与したことを推認することができる。
加えて、証人鈴木隆雄の当審証言(第三〇回公判)及び同人作成のパルス音に関する第三鑑定によれば、電話には、送話者が通話を切った際に、その間に介在する各電話交換機の継電器の接続が切れる音(これをパルス音という。)が発生し、この音を調べることによって、通話先から経由した電話局、場合によっては通話地域を推知できるのであるが、同人が、前記の録音テープに録音されていた道警爆破事件の第一回目(道警本部にかけられたもの)及び第三回目(朝日新聞北海道支社にかけられたもの)の通告電話のパルス音を検討したところ、午後四時二七分ころかけられた第一回目の通告電話のパルス音は、札幌市内全域及びその周辺の加入電話、公衆電話から道警本部へかけた試験電話のパルス音と比較した結果、発信電話局はD一〇型電子交換機を使用する電話局であると認められ、当時、同交換機を使用していた電話局は、札幌大通電報電話局及び札幌南電報電話局であって、これらの局の管轄する電話からかけられたものと推認されるというのであり、午後六時二五分ころかけられた第三回目の通告電話のパルス音は、札幌市内各所及びその周辺地域の加入電話、公衆電話から朝日新聞北海道支社へかけた試験電話のパルス音と比較検討した結果、C四五型交換機を使用している札幌市五一一局、五二一局の電話のパルス音と似ており、当時、被告人の当時の勤務先であった同市中央区内所在のクラブ「重役室」の電話機(×××局××××番)からかけた場合のパルス音とよく似ているというのである。
他方、右クラブ「重役室」の女主人であった原審証人伊藤好子の供述するところによれば、右クラブの従業員の勤務時間は午後五時から午前一時までであるが、午後六時の開店までに店内の掃除をし、客が入りだす午後七時近くまでは割に暇であるので、ウエイターであった被告人はその間に、断って店外に電話をかけにゆくことが時々あった。昭和五〇年七月一九日、道警爆破事件の当日、被告人は少し遅刻して午後五時三、四分ころ出勤し、店の掃除の後、夕刊らしい新聞を読んでいたという(第八五回公判調書)。
このような経緯に照らすと、被告人が出勤するまでに第一回目及び第二回目の通告電話をかけ、さらに、クラブ「重役室」に出勤してから第三回目の通告電話をかけたとしても時間的、場所的に不合理な点はないと認められる。
3 小括
このようにみてくると、「*」印記号の筆跡鑑定の結果から前記犯行声明文中の「*」印記号が被告人の筆跡であるとは断定できないし、声紋の比較対照による異同識別は、実際上、確度の検証が難しいので、当審における鈴木隆雄の声紋の鑑定結果と前記カセットテープの証拠調の結果のみから道警爆破事件に関する通告電話の送話者が被告人であるとは言えないけれども、被告人には「*」印記号を常用する習癖があり、道庁爆破事件の犯行声明文には三か所、行頭に「*」印記号が手書きされていて、書き込まれた「*」印記号の大きさ、筆順、書き込み位置、使われたボールペンのインクの質などの点で、被告人が自筆したと認められる前記の書籍等に書き込まれた「*」印記号との間に、共通の類似点が認められること、日本人のアイヌモシリ侵略に対する爆弾闘争を企てる被告人の考え方と本件犯行声明文の内容には共通するものがあることなどを併せ考えると、被告人が本件犯行声明文の「*」印記号を記入した蓋然性が高いと認められること、他方、道警爆破事件と道庁爆破事件の各犯行声明文については、その形状(テープライターで幅九ミリメートルの黒色テープに片仮名を打刻し台紙に貼付したもの、ただし本件犯行声明文には数字を一部含む。)、所在場所(地下鉄大通駅設置のコインロッカー内)、新聞社等に対する所在場所の通告電話、作成名義(東アジア反日武装戦線)、内容(アイヌモシリ侵略に対する闘いの表明であって、被告人の立場と基調を同じくする。)など特徴的共通点が認められ、更に木村英一の打刻文字の鑑定結果によれば、両犯行声明文がいずれも同一、特定の片仮名文字盤を用いて打刻された可能性が強いことなどを勘案すると、両声明文には同一人物の関与が窺われ、しかも、道警爆破事件の犯行声明文に関する通告電話の送話者の音声と被告人とが類似していると認められること(特に、第一回目の通告電話の分)などを併せ考慮すると、その余の状況証拠の存在と相埃って、被告人が道庁爆破事件の犯行声明文の作成に関与したことを推認するに十分である。
七本件爆発物の設置について
1 証人甲野の原審及び当審における目撃証言
甲野太郎は、原審(第六七回、第六八回、第七一回ないし第七三回公判調書)及び当審(第六回公判調書)において供述した(道庁付近で二人連れの不審者を目撃した状況に関する供述内容は、当審証言では記憶が薄れて明確に供述できなかったところがあるものの、概ね原審証言と同旨であって、これと大きく異なるところはない)。そこで、原判決が被告人と本件事件とを結び付ける重要な証拠の一つとしている右甲野の原審証言と当審証言を合わせて、その内容の信用性等について以下検討を加える。
(一) 証人甲野の目撃状況に関する証言の要旨
甲野の原審及び当審における証言(これらを併せて、以下「甲野証言」ということがある。)の内容は、およそ次のとおりである。
イ 不審な二人連れが道庁西玄関に入るのを目撃した状況について
私は、昭和五一年二月二九日、三月一日の二日間、道庁北隣にある北海道自治会館に連れの者と一緒に宿泊していたが、翌二日の本件当日は、スーパーマーケット等の見学が予定されており、朝食後、午前九時に迎えの車が来るまでの間に、散歩がてら、道庁庁舎内の交通公社で帰りの航空券を購入しておこうと思い、午前八時一五分から二〇分ころ、独りで自治会館を出て、道庁北西角から西側歩道を南に向かってゆっくり歩いているうちに、道庁の敷地内を私とほぼ平行に、南へ向かって歩いている二人連れの男を目撃したが、二人はぴったり寄り添うように歩いており、私に近い方の男(以下Aという。)は右手にバッグを提げ、私から遠い方の男(以下Bという。)は手に白っぽい手提げの紙袋を提げており、私が二人に気付いてから三メートルくらい進んだとき、Aはバッグを左脇の下に抱えるように持ち替え、Bは更にAにぴったりくっついたので、私は男どうしのくせに随分くっついて歩いているなあと思った。
AとBは、小声で話し合っているようであったが、声は聞こえず、私が道庁の北寄りの西門前にさしかかったとき、私より少し遅れて歩いていた。顔をみると、Aは眼鏡をかけているのがわかった。AとBはそのまま道庁西玄関から庁舎内へ入った。
ロ 不審な二人連れが道庁西玄関から出てきたときの状況について
私は道警本部前まで来たとき、日本生命ビルには北四条通を東に行く方が近いと思い付き、もと来た道を引き返したが、その途中、AとBが西玄関から少し急ぎ足で出てくるのを見た。二人は入るときと異なり、バッグ、紙袋は持っておらず、またAは西玄関へ入るときには眼鏡をかけていたのに、出てきたときには、かけていなかった。二人は北寄りの西門へ向かい、私は二人から一時目を離し、うつむき加減に歩いてきたが北寄りの西門のところで顔を上げると、Aが右斜め前方のすぐそばまで来ており、ぶつかりそうになったとき、互いに一瞬立ち止まり、次いで双方ともそのまま歩き出したが、最も接近して顔を見たのは、六、七〇センチメートルくらいになったときである。Aと目が合い、Aは私が誰か探るような目付きをしたが、困惑の表情から薄笑いのような表情になり、それから顔がこわばってきて、最後に物凄い形相になった。今にもつかみかかられるような感じで、一瞬身構える気持ちになり、因縁をつけられるかと思ったが、なにごともなく済んだ。Aがなぜ睨みつけたのか、わからなかったが、強いて考えると、Aの道をふさぐようになったので立腹したのかと思った。Aと北寄りの西門で出会ったとき、BはAより三、四メートル遅れて歩いていた。擦れ違った後、振り返らなかったので、二人連れがどっちへ行ったかは、わからない。その後、日生ビルへ行きかけたが、連れを待たせることになってはと思い、途中から自治会館へ引き返した。
ハ 二人の容姿、着衣などの状況について
Aは、私(身長一六八センチメートル)よりちょっと高めぐらいでないかなという感じ、一七〇センチメートルくらいで、体格はすらりとしており、髪形は長くもなく、短くもなく、襟足あたりまでの普通の若いサラリーマンのような感じで、眼鏡は、普通の合成樹脂製で上側が黒っぽく、下側が白い縁であったが、西玄関から出てきたときには掛けていなかった。顔は最初見たとき優しそうで、目の細いきゃしゃな感じの面長に見えたが、擦れ違うときには、大きな目で睨みつけられた。年齢は二五、六歳くらいに見え、普通の短めのコート、黒っぽいというか、グレーというか暗い感じの色で、着古したような感じのレインコートを着ていた。公判廷で見せられたレインコート(被告人所有のレインコート、原審検一〇六〇、符号二九七)は形、色ともよく似ている。Aの持っていたバッグは手提げ式で、強いていえばスポーツバッグのようなもので、色は暗いような感じで、長さ四、五〇センチメートルくらい、長さの割にそんなに高くない、細長い感じのものであった。公判廷で示されたバッグ(原審検六八、符号一一七)とよく似ているといえる。
Bのことは、Aの印象が強かったので、あまりはっきり覚えていないが、Aより身長はちょっと低い感じ、どちらかというと、Aよりがっちりした体格で、髪の長さはAと同じくらい、年齢もAと同じくらいで、眼鏡はかけておらず、白っぽいというか、うすいクリーム色という感じのコートを着て、手にデパートで買い物のときくれるような白っぽい手提げ紙袋を提げていた。
A、Bとも無帽であったが、二人のズボン、手袋、履物については記憶がない。
ニ 被告人と二人連れの結び付きについて
本件当日、道庁で見た二人連れのうちAは、公判定に存在する被告人に似ていると思う(原審第六七回公判調書)。
昭和五一年八月上旬、被告人が逮捕されたのをテレビで知ったが、画面に映った被告人を見て、よく似ているなと思った、正直いってびっくりした、その後、同月一八日ころ札幌の中央警察に呼ばれ、留置場に隣接する事務所のような所で刑事と話していると、目薬を取りに入ってきた被告人を一ないし1.5メートルのところから見たのが実物の被告人を見た最初であるが、三月二日のAとそっくりなので驚いた、この時、被告人は眼鏡をかけていた、それから取調室で透視鏡越しに、眼鏡をかけた状態とかけない状態の被告人を正面、うしろ、側面など角度を変えて観察したが、面通し当時の被告人と在廷している被告人では、髪形、顔色、感じなど変わってはいるが、面通し時と在廷の被告人の顔を総合して、絶対間違いないとは断言できないが、Aと同一人物だと思う、非常によく似ている(原審第六八回公判調書)。
(二) 甲野が原審において証言するに至った経緯
証人甲野の供述内容は前掲(一)のとおりであるが、関係証拠によれば、右甲野が原審において証言するまでの経緯は、およそ次のとおりである。
甲野太郎は、本件当時、三六歳で、父親の経営する根室市所在の水産会社の常務取締役をしていたが、同市の水産物加工業者の団体の委員の一員として、札幌市内の水産物加工場等の視察旅行に参加して、昭和五一年二月二九日、三月一日の二日間、道庁北隣の北海道自治会館に宿泊し、翌二日の本件当日の朝、前示証言のとおり、道庁西側を通りかかって、不審な二人連れを目撃したが、このことは誰にも話さずにいたところ、同年四月上旬ころ、右甲野が本件事件当日札幌へ出張していたことが、道警本部の指示を受けて道庁爆破事件の聞き込み捜査に当たっていた道警釧路方面本部根室警察署の警察官の知るところとなり、同署警察官の訪問を受け、なんでもいいから出張中気付いたことがあったら話してほしいといわれたので、ためらいはあったが、不思議な人に出会ったと、事件当日の朝に道庁で不審な二人連れを見た旨申し出た。
甲野の右申し出につき報告を受けた爆捜本部は、同人から事情を聴取するため、遠藤英人警部、栗生賢一警部補及び渋木摩早子(不審人物のイラストレーション作成の要員)の三名を根室に急派し、同年四月一〇日、遠藤警部が右甲野の司法警察員に対する同日付供述調書(原審弁一〇)を作成し、右渋木が甲野の説明に基づき同人が目撃した不審人物二人(これを、以下A、Bで特定する。)のイラストレーション(以下イラストという。)計三枚(原審検八九四、符号二九一、原審検一〇七五、符号三〇〇、原審検一〇七六、符号三〇一)を作成した。その際、栗生警部補が警察が保管している容疑者の人物写真数葉を右甲野に示したが、その中に同人が目撃した不審人物に似た人物はいないという答であった。
そこで、同年四月一二日、道警釧路方面本部において、道警本部刑事部鑑識課の三波仁作警部が右甲野の説明を受けながら前記AとBのモンタージュ写真の作成を試みたが(Aにつき原審検一〇六九、符号二九八、Bにつき原審検一〇七二、符号二九九)、甲野の納得のゆく作品ができなかったため、改めて、同月一六日、同人を札幌市の道警本部に呼んで、事件当日見た不審人物の容貌について説明を求め、鑑識課保管の一般犯罪の被疑者写真約四〇〇〇枚の中から部分的に似ていると指摘された約二〇枚を抽出し、これを参考に、手書きで補いながら、再度、AとBのモンタージュ写真を作成したが、甲野によれば、このうち、Bのモンタージュ写真(原審検一〇五一、符号二九三)は、満足のゆくものではなかったが、Aのモンタージュ写真(原審検一〇五〇、符号二九二)は、実際の人物の方がやや面長であるが、その点を除けばよく似ているということであった。
その後、右甲野に対する事情聴取は行われないまま推移したが、前掲四の経緯で、同年八月一〇日に至って被告人が逮捕され、本件爆破事件についても嫌疑が生じたので、爆捜本部は、同月一八日、中央署において、右甲野に勾留中の被告人を単独で見せ、また、逮捕後に中央署鑑識係が撮影した被告人の写真を見せたところ、右甲野から事件当日道庁付近で目撃した二人連れのうちのバッグを持っていた男(A)が被告人に似ている旨の指摘があったので、引き続き供述を求めて、司法警察員に対する同日付供述調書(当審検一、弁一)を作成した。なお、右調書作成に先立って、甲野は調書作成にあたる警察官とともに、道庁の目撃現場を歩いてみた。
その後、右甲野につき、検察官が事情聴取をおこない、同月三〇日供述調書(当審検二、弁二)を作成し、さらに同年九月一五日、検察官が施行した道庁の現場の実況見分に甲野の立会を求め、AとBのモデルを使って当日の模様を再現し、目撃の状況の指示説明を聴いたうえで同日付供述調書(当審検三、弁三)を作成し、さらに、同月二六日付供述調書二通(当審検四、弁四及び当審検五、弁五)を作成した。
そして、右甲野は前記のとおり、原審及び当審において証言したが、証言の開始(昭和五四年一二月一九日の原審第六七回公判期日)に先立って、同月四日、捜査段階で作成された前記の各供述調書を通続し、検察官とともに、目撃当日に歩いた経路をそのとおり歩いて所要時間を計測したところ、約一三分かかった。
(三) 甲野証言の信用性
原審において、弁護人から甲野証言の弾劾証拠として請求された甲野太郎の前記司法警察官に対する昭和五一年四月一〇日付供述調書が採用され、甲野証言の信用性の検討の資料として用いられたが、当審に至って、更に、同人の前記の司法警察員に対する同年八月一八日付供述調書及び検察官に対する供述調書四通の計五通が、弁護人から甲野証言の弾劾証拠として、また、検察官からも供述の経過、状況を立証する証拠として、それぞれ請求されて、いずれも採用されたことが、本件記録上明らかである。
そこで、これら捜査段階で作成された供述調書等との対比などを通じて、甲野証言の信用性について検討を加える。
(1) 甲野が警察官の事情聴取を受けて、二人連れの不審者の目撃状況に関し、初めておこなった供述を録取した司法警察員に対する昭和五一年四月一〇日付供述調書の該当部分は、およそ次のとおりである。
イ 不審な二人連れが道庁西玄関に入るのを目撃した状況について
当日の朝、帰りの航空券を購入しておこうと思い立ち、午前八時半前、多分八時二五、六分ころ、自治会館から独りで出掛け、自治会館南側の横断歩道を渡り、道庁北西角に来たとき、道庁北側の石塀内を北西角の方に歩いて来る二人連れの若い男達を五ないし七メートルくらい離れた位置から見かけたが、その男達は石塀を隔てて道庁敷地内を南へ向かい、私は道庁西側の歩道を南へ向かった。そのころ、中年の小ぶとりの女性が道庁の西側回廊を歩いて西玄関に入ったらしいのを見たほか、私とその二人連れ以外には、あたりに通行人はいなかった。
二人組の男達のうち私に近い方の男をA、その向こう側の男をBとすると、Aは年齢二五、六歳、中背の感じ、横顔はきゃしゃな角顔で、細い目をしており、頭髪は襟足くらいまでの長さ、眼鏡をかけ、濃いグレー系のスプリングコート様のものを着ており、そのコートの色の褪せたような色の布製のバッグを持っていたが、その形などはわからない。
BはAと年齢が同じくらい、身長はAより若干低い感じで(後掲のように、Aと同じくらいともいう。)、ややがっちりした体形と思う。顔形ははっきり覚えていないが、白っぽいコートを着て、左手にデパートで売っているような大きな買い物入れ用の白っぽい紙袋を下げていた。
AとBはぴったりとくっついて並んで歩いており、バッグを二人の間に狭んで隠しているような恰好だったので変な歩きかたをしているものだなと印象に残った。この二人組はぴったりと肩をくっつけてひそひそ話ながら歩いていたが、間もなく私に背を向けて道庁の西玄関から入っていった。その後ろ姿を見たとき、Aが左脇にバッグを抱えているのが目についた。
ロ 道庁西玄関から出てくる二人連れを目撃した状況について
私は、そのまま歩道を南へ向かい、道警本部の玄関を越したところで、ぶらぶら来た道を引き返す折りに、道庁西門に差し掛かる手前の石塀越しになに気なく、西玄関の方を見ると、先程見た二人連れの男達が、向かって左側にA、右側にBが並んで、二人の間に人が一人入れるくらいの間隔をおいて出てくるのを見付けた。Aは、バッグを持たず、Bも紙袋を持っていなかった。二人の服装は前に見たのと同じであった。
道庁正面から二人連れが出てきて南に曲がるのと私はばったり会った状態になり、私はその左側をすれちがって北の方へ向かったが、この時、B(甲野は原審第七二回公判において、これはAの誤記である旨述べたことが認められる。)は私をじろっと睨むようにしていったのが印象に残っている。Aの身長は、私よりやや大きめで一六八、九センチメートルくらい、きゃしゃな感じ、Bの身長は、Aと同じくらい、ややがっちり型と思う。振り向かなかったので、二人連れがどっちへ行ったかは、わからないが、歩道を南へ向かった感じである。
(2) 甲野が、事件当日の目撃事実を供述した内容の初めての記録である右四月一〇日付供述調書の記載内容と甲野証言の内容とを比較すると、後者は、公判廷で繰り返し詳細な質問を受けて、前者より格段に内容が増え、詳しくなっていることが認められるが、その各供述内容の要点を対比検討のため列挙すると、およそ次のとおりである。
イ バッグを持った二人連れが西玄関へ入るまでの目撃状況等
四月一〇日付供述調書は、
二人連れが道庁西玄関から入ってゆくとき、Aが左脇にバッグを抱えているのを認めた。Aが持っていたバッグは、Aのスプリングコート(濃いグレー系)の色褪せたような色の布製だったと思うが、型などはわからない、
Bは左手にデパートで売っているような大きな買い物入れ用の白っぽい紙袋を提げていた、
二人連れはぴったりくっついて並んでひそひそ話しながら歩いていた、
このバッグを二人の間に挟んで隠しているような恰好で、変な歩き方との印象をうけた
というのであるが、
甲野証言は、
二人連れを見たとき、Aは手提げ式のバッグを右手に提げていたが、左脇の下に抱えるようにして持ち替えた、
Bはデパートで買い物のときくれるような白っぽい手提げ紙袋を提げていた、二人連れはぴったり寄り添って歩いていた、
Aがもっていたバッグが、長さ四〇ないし五〇センチメートルで細長い、色はグレーというか暗い感じ、示されたスポーツバッグ(原審検六八、符号一一七)によく似ているといえる、
というのである。
証言においては、Aがバッグを持ち替えたことが述べられ、Aのバッグの形と大きさの描写おこなわれたが、これらの内容は、警察官に対する供述調書にはなく、検察官に対する昭和五一年八月三〇日付供述調書で初めて現われたものである。
ロ A、Bが道庁西玄関から出てきた際の状況
四月一〇日付供述調書は、
二人連れが向かって左側にA、右側にBが並んで出てくるのを認めた、Aはバッグを持たず、Bも紙袋を持っていなかった、道庁正面から二人連れが出てきて南に曲がるとばったり会った状態になり、B(前叙のとおり、甲野の原審証言は、この点はAの誤記という。)は私を睨むようにして行った、
というのに対し、
甲野証言は、
A及びBが西玄関から少し急ぎ足で出てくるのを認めた、二人ともバッグ、紙袋を持っていなかった、Aは西玄関に入るときは眼鏡をかけていたのに、出てきたときは眼鏡をかけていなかった、二人連れが西門に向かい、北寄りの西門のところで顔を上げると、Aが右斜め前方のすぐそばまで来ており、ぶつかりそうになったとき、互いに一瞬立ち止まり、目があい、Aは最初私が誰であるか探るような目付きをし、困惑の表情となり薄笑いのような感じになり、顔が硬直して最後に物凄い形相になって、今にもつかみかかられるような感じで、一瞬身構えた、というのである。
以上から明らかなように、右供述調書と証言では、二人連れが西玄関から出てきたとき、バッグ、紙袋とも持っていなかったことでは一貫しているが、視線があった相手(AかBか)が異なり、また、当初の供述調書では、単に、Aは眼鏡をかけていたと言うのみで、西玄関から出てくるのを見たときの眼鏡の有無については何も触れていない(証言では、Aは西玄関から出てくるときには、眼鏡をかけていなかったという。)。この点に触れたのは、検察官に対する昭和五一年八月三〇日付供述調書が最初である。そして、Aから睨まれた様子についても、当初の供述調書では、単に、睨むようにして行ったというのであるが、検察官に対する右八月三〇日付供述調書では詳しく記述し、証言でもこれと同旨の詳細な描写がなされた。
ハ AとBそれぞれの容貌、体格、着衣等
【Aについて】
四月一〇日付供述調書は、
〔身長〕私(一六八センチメートル)よりやや大きく、一六八、九センチメートルくらい、
〔体格〕きゃしゃ、中背、
〔髪形〕襟足くらいまでの長さ、
〔容貌〕横顔はきゃしゃな角顔で、目は細い、眼鏡を掛けていた、年齢は二五、六歳くらい、
〔着衣〕濃いグレー系のスプリングコート様のものを着ていた、
〔帽子〕(記述なし)
というのに対し、
甲野証言は、
〔身長〕私(一六八センチメートル)よりちょっと高めで、一七〇センチメートルくらい、
〔体格〕すらっとしたような感じ、
〔髪形〕長くもなく、短くもなく、普通の若いサラリーマンの襟足近くまであるような髪、
〔容貌〕顔はやさしそう、目の細いきゃしゃな面長の感じ、眼鏡は普通の合成樹脂製で上側が黒っぽく、下側が白い縁、
年齢は二五、六歳の感じ、
〔着衣〕黒っぽいというか、濃いグレーのような暗い感じのする着古したような短めのレインコートを着ていた、
〔帽子〕被っていなかったと思う、
と述べており、
【Bについて】
四月一〇日付供述調書は、
〔身長〕Aと同じか、若干低い感じ、
〔体格〕ややがっちり型、
〔髪形〕(記述なし)
〔容貌〕記憶していない、
〔着衣〕白っぽいコート、
〔帽子〕(記述なし)
とあるのに対し、
甲野証言は、
〔身長〕Aよりちょっと低い感じ、
〔体格〕Aよりがっちりした感じ、
〔髪形〕髪の長さはAと同じくらいか、襟足まで長い、
〔容貌〕余りはっきり記憶していないが、強いて言えば、がっちりした顔付き、眼鏡はかけていなかったようである、
〔着衣〕白っぽいというか、うすいクリーム色の感じのコート、
〔帽子〕被っていなかったと思う、
と述べている。
右の対比から、AとBの容貌等につき、Bについては、証言のほうが、当初の供述調書の描写より内容が詳しくなっているが、Aについては、眼鏡の縁の性質、色の描写が加わったほかは、当初の供述調書の描写内容が、証言においてもほぼそのまま維持されているということができる。
(3) 甲野を被告人に面通しさせた直後に作成された、被告人を見た印象に関する司法警察員に対する昭和五一年八月一八日付供述調書の内容は、およそ次のとおりである。
先程、若い男を見たが、見た瞬間似ていると思った。道庁爆破事件の関係でこれまでたくさんの男の写真を見せられたが、それらは顔の一部分がどこか似ているというものだったが、今日若い男を見たとき私が見た男の印象に一致したという感じを最初に受けた。
今朝見た男は、三月二日に見た二人連れのうち、バッグを持った男に似ている。体格ががっちりしていて、身長も同じくらい、顔も面長で、優しい印象を受ける。横から見た目の細い、切れ長な感じ、黒縁の眼鏡、余り長くない頭髪の型、後ろ姿が似ている。三月二日の朝、二人連れを前、横、後から見ており、今朝も前後、左右、眼鏡を外したところも見たところ、全体的印象も似ている。逆に印象と違うところは別にない。結論的に非常によく似ている人である。
(被疑者所有のコートを見せたところ)コートを見せられたが、色、形ともこのようなコートだった。(昭和五一年八月一一日札幌中央警察署鑑識係が撮影した被告人の写真を見せたところ)正面の顔もよく似ていると思うが、横顔が私の記憶している顔にそっくりである。
(加藤三郎の写真を見せたところ)二人連れの紙袋を持った男とは違うように思う。髪がリーゼントでしたから、このようにボサボサの頭ではない。強いて言えば、目、鼻等がいくらか似ているという感じである。
(4) このようにみてくると、甲野証言は、当日の朝、自治会館を出た時刻、延いては不審な二人連れを目撃した時刻、Aのバッグの携帯の仕方、バッグの形状、二度目にAを見たときAが眼鏡をかけていたか否か、擦れ違うとき甲野を睨んだのはAかBか(この点は、後に検討するとおり、四月一〇日付司法警察員に対する供述調書にBとあるのは、甲野の原審証言がいうように、Aの誤記と認められる。)、睨んだときの表情の変化、Aの容姿の各描写、Aと被告人の類似個所などの点において、原初供述である司法警察員に対する昭和五一年四月一〇日付供述調書(不審な二人連れの目撃状況につき)、同年八月一八日付供述調書(面通し直後の調書、不審な人物Aと被告人との同一性につき)とそれぞれある程度の相異が認められるところ、本件において、不審な二人連れの目撃は、甲野にとって偶然の事態で、目撃時間が比較的短かく、相手と言葉を交わしたわけでもなく、しかも、目撃から原初供述までに既に相当の時日が経過しているうえ、原初供述から原審証言までに更に三年余りの間隔があり、その間、原初記憶が漸次減弱するとともに、他方では、新聞、テレビの報道、目撃現場の実況見分の立会、捜査官との対話、証言に先立つ供述調書の通読などを通じ、事件に関する雑多な知識の摂取、思い込み、記憶の再生等が繰り返され、これらが渾然となって、無意識のうちにも、原初記憶と証言時の記憶との間にある程度の変容を来していたであろうことは推測に難くなく、また、繰り返し目撃内容の説明を求められるうち、聞き手の理解を得ようとするあまり、無意識のうちにも記憶の再生を超えて説明が過剰になり、あるいは表現が誇張されることは、ままあり得ることである。
このような点を考慮すると、甲野証言の内容を全面的にそのまま措信し、右甲野証言のみから、甲野が本件事件当日の朝、道庁付近で目撃した不審な二人連れのうちの片方が被告人であると結論づけることは、所論の指摘を俟つまでもなく、相当ではない。
したがって、甲野証言が具体的、詳細で臨場感に富むからといって、同証人の供述内容の確度が極めて高いとは必ずしも言えないのであって、「証人甲野太郎の証言はこれを信用できるから、同証人の目撃したAが被告人であることは疑いを容れない」として、その供述内容を全面的に措信できるとする原判決の甲野証言に対するる評価は、いささか過大にすぎると言わなければならない。
しかしながら、甲野の供述のうち、少なくとも、①本件事件当日、午前八時一五分ないし二五、六分ころ道庁北隣の自治会館を出て、道庁西側の歩道上を歩いているとき、二人連れの男AとBが寄り添うようにして道庁の敷地内を歩いており、Aはバッグ、もう一人のBは白っぽい買い物用の紙袋をそれぞれ携帯して道庁西玄関から入って行き、それから間もなくして、右の二人連れがバッグ、紙袋とも持たずに同じ西玄関から出てきたこと、②右二人連れのうち、片方と道庁西門のところでばったり出会い、その際、目が合って睨まれたこと、③Aの身長は、甲野の身長(一六八センチメートル)よりやや高めで一六八ないし一七〇センチメートル、髪の長さは襟足くらいまで、当初見たとき眼鏡をかけ、目は細く、年齢二五、六歳の感じであったこと、④Aは、濃いグレーのような色のコートを着ていたこと、⑤Aが持っていたバッグは、グレー系の色合の布製であったこと、⑥二人連れのうち、バッグを持っていたAが被告人と非常によく似ていること、の諸点については、原初供述から、原、当審における証言に至るまで、厳しく反対尋問にさらされながら、右の範囲でその供述内容が一貫して揺るがないばかりでなく、これらの供述内容のうち、甲野証人が述べるAの髪形と原審証人乙野花子の証言(第七七回公判調書)及び同水梨文男の証言(第八四回公判調書)から認められる本件当時の被告人の髪形とは類似していること、甲野証人が述べるA着用のコートの色合い、形状と被告人から押収されたレインコート(原審検一〇六〇、符号二九七)のそれとは概ね合致すること、甲野証人が述べるAが携帯していたバッグの色合い、材質と現場で押収された布片(原審検九五、符号一五等)、石沢徳四郎の検察官に対する供述調書等から本件爆発物を収納して爆発現場に設置するのに用いられたバッグと同種と認められるバッグ(原審検六八、符号一一七)のそれは、ほぼ一致すること、甲野証人はAの身長は自分(身長一六八センチメートル)よりやや高いと述べるところ、被告人の身長は甲野より約5.5センチメートル高いこと、その他、甲野の描写するAの容貌の特徴、年頃が被告人のそれと矛盾なくほぼ合致し、昭和五一年四月一六日に道警本部で甲野の説明をもとに作成されたAのモンタージュ写真(原審検一〇五〇、符号二九二)は、被告人の容貌に比較的似ていること、さらには、甲野が、根室市に住み、原審証言時まで、家業の水産会社の役員を勤め、本件当時は水産関係施設の視察のため出張のため札幌を訪れ、道庁北隣の自治会館に宿泊していて、たまたま当日の朝、散歩がてら帰路の航空券を買いに外出した際、不審な二人連れを目撃したもので、本件に関し利害関係はまったく認められず、原、当審を通じて、長時間にわたり繰り返し厳しい質問を受けながら、常に真摯で、冷静な供述態度を維持し、特段の偏向的な供述態度、殊更に感情的な供述態度は窺われないことなどにも徴すると、甲野証言は、前記のような問題点を包蔵するにもかかわらず、不審な二人連れの目撃状況についての根幹的な供述内容のうち、少なくとも、前掲①ないし⑥の供述内容については、相当に高く信用できると評価して誤りないものと認められる。
2 その他の証拠
前記のとおり、爆発現場から収集された布破片等から判断して、本件爆発物は、スポーツバッグ(原審検六八、符号一一七)と同様のバッグ(以下「本件バッグ」という。)に入れられていたことが明らかであるが、この事実は、道庁一階エレベーターホールの四号エレベーター前において、爆発直前に本件バッグを目撃した石沢徳四郎の検察官に対する供述調書によっても裏付けられるところ、バッグを携えた不審な二人連れが道庁本庁舎西玄関から入って行くのを目撃した前記甲野証言のほかに、一階エレベーターホールの四号エレベーター昇降口付近に置かれていたバッグないしバッグのような物件を目撃した者の供述として、証人真田高司の原審(第六五回公判調書)及び当審(第三四回公判)における各証言、証人飯塚友幸の当審証言(第四回、第一六回各公判調書)があり、これらを子細に検討すると、とくに、その色合い、形状、床に置かれていた状況等について齟齬が見られるので、以下に検討を加える。
(一) 石沢徳四郎の検察官に対する供述調書の要旨
本件事件当時、同人は、道の河川課管理係長であり、登庁した際、道庁爆破事件によって重傷を負ったものであるが、右受傷の直前にエレベーターホールの四号エレベーター昇降口付近に置かれていた本件バッグを目撃したもので、同人が検察官に対し供述したところによると、バッグは四号エレベーター前の壁に触れるくらい近くに置かれていたが、大きさは、横四四ないし四六センチメートルくらい、縦一五センチメートルくらい、高さ三〇センチメートルくらい、黒っぽい色のバッグで提げ手がついており、中に荷物が入っているようであり、チャックが開いて丸めた新聞紙が斜めに無造作に鞄の中に突っ込んであって、二〇センチメートルくらいはみ出しているように見えたが、出張してきた旅行者がバッグを置いてロビーの公衆電話へ電話をかけに行ったのかなと思ったというのであり、右バッグはスポーツバッグ(原審検六八、符号一一七)と形状がよく似ていたというものである。
(二) 証人真田の原審及び当審証言の要旨
真田高司は、本件事件当時、道の住宅都市部建築指導課に勤務していたものであるが、当日は、道庁北隣の自治会館で建築基準法の講習会があるため、いつもより早めに午前八時少し前ころ登庁し、九階の自分の課の部屋の前で七、八分くらい部屋の開くのを待っていたが、誰も来ないので、地下一階の守衛室まで鍵を取りに降り、時計で午前八時二〇分であることを確認して鍵受渡簿に右時刻を記載し鍵を受け取って部屋に戻ったところ、その間に掃除婦によって部屋が開けられていたこと、それから少したって、一二、三人の課員や応援の者が集まり、講習会に使うテキストを一五冊づつ束ねる作業をしてから、各自手押車や手に持って自治会館まで運んだが、真田は、束ねたテキストを両手に提げて三号エレベーターで一階エレベーターホールへ降り、四号エレベーター前付近にさしかかったとき、幅及び高さが二〇ないし二五センチメートルくらい、長さが四〇ないし五〇センチメートルくらいで、色はジーパンの古ぼけたような濃い青色のバッグが置いてあるのが目に入ったが、取っ手が付いていて提げられるようになっており、中に電気工事屋が使うパイプかなにかが入っているように見え、手に提げていたテキストの束がこのバッグにぶつかりそうになったのでこれを避けて通ったというのであり、原審においては、前記スポーツバッグ(原審検六八、符号一一七)に比べると、色は似ているがもう少し古ぼけていた、と供述したが(第六五回公判調書)、当審においては(第三四回公判)、原審で述べたのとほぼ同じくらいの大きさのバッグが、長いほうが横になるように置かれており、口が潰れた状態になっていたと思う、形状については、法廷で弁護人から示された鞄(当審第三四回公判調書中、同証人の供述部分末尾に添付された写真参照)に似ているが、前記スポーツバッグの中に押収にかかる消火器を入れて上部を押し潰した状態のものを示されたところ、これと似ていると証言し、一方、当審において、同人の供述の経過を立証するものとして採用された右真田の司法警察員(昭和五一年四月二三日付)及び検察官(同年一一月一日付)に対する各供述調書には、同人が描いたバッグの図面が添付されているが、これによると、その形状は、当審において弁護人が示した前記鞄に似ていることが認められる。なお、右司法警察員調書に添付された図面に描かれた鞄の上部右側に何かの絵柄があった旨の記載が見られる。
(三) 証人飯塚の当審証言の要旨
飯塚友幸は、当時、前記真田と同様、道の住宅都市部建築指導課に勤務していたものであるところ、当日は、建築基準法の講習会の準備のため、午前八時三〇分までに集合するように言われていたが、汽車に乗り遅れたこともあって、道庁玄関に着いたときには集合時間の三〇分をちょっと過ぎており(この点については、当審第一六回公判調書同証人の供述記載、日本国有鉄道札幌鉄道管理局長の照会回答書(当審検一〇)により、国鉄北広島駅から乗車し、札幌駅に着いたのが午前八時一八分ころであり、同駅から道庁まで徒歩で約一〇分かかるから、道庁玄関には午前八時三〇分ころに到着したものと認められる。)、一階エレベーターホールでエレベーターに乗ろうとしたとき、向かいの四号エレベーターの昇降口前付近に、クリーム色っぽいような、あるいは白っぽいようなレインコートを着た二人連れの男が手ぶらで立っているのを見た、二人は四号エレベーターが来て昇降口の扉が開いても乗らずに立っていた、飯塚は、そのままエレベーターで九階の自分の課に行き、講習会用テキスト類を台車に乗せて、エレベーターを利用して一階のエレベーターホールに降りて、講習会場のある自治会館に向かおうとしたところ、四号エレベーター付近に黒っぽい物体があり、これに台車がぶつかりそうになったが、その物体は、腰より少し低目くらいの高さで、朝日が当たって白っぽく光っており、ゴルフクラブを入れる小型のバッグのように見えた、その後、九階へ上がったり、コートや鞄を持って自治会館に行ったりして、一階エレベーターホールの四号エレベーター付近を通ったが、そのときにも右ゴルフバッグのような物体はあったと思うが余り気に留めなかった、しかし、スポーツバッグ(原審検六八、符号一一七)のようなものは見ていない、というのである(第四回、第一六回各公判調書)。
しかし、他方、飯塚証言の弾劾証拠として請求、取り調べられた飯塚の司法警察員及び検察官に対する各供述調書(当審検七、八)によれば、四号エレベーターの右側壁の前に上部が光る高さ五〇ないし六〇センチメートルくらいの物が立てかけられてあったというのであり、ことに司法警察員に対する供述調書においては、スポーツバッグ(原審検六八、符号一一七)と同じであるかどうかははっきりしないが、右バッグを縦にして、底を前側にしたら、全体がよく似ているといい、検察官に対する供述調書においては、さらに明瞭に、横約三〇センチメートル、幅約一八センチメートル、高さ約五〇センチメートルの大きさの黒い物で、右側の上の方が螢光灯か何かの光で少し光っていたような気がするというのである。
(四) 証人向井、同森木、同大原の各原審証言の要旨
森木ミヨノ及び向井秀子は、掃除婦として、事件当日は、一緒に道庁舎一階の掃除にあたっていたが、二人で午前八時五分か同一〇分ころにエレベーターの前を通りかかった際には、殆ど人はおらず、爆心位置付近にバッグなど目につくものはなかったことを確認している、その後、向井は一階道民ホールの道民相談室などを清掃したが、八時三〇分から四〇分ころまでに清掃を終えるように言われているのに、壁の時計を見ると午前八時四〇分ちょっとだったので、いつもより今日は時間がかかったねと森木と話したのを記憶している、道民ホールの清掃の後、もう一度エレベーターホールを通ったが、人がたくさんいて、通るのがやっとであり、四号エレベーターの昇降口の前付近は見えない状態であった、というのであるが(向井の原審証言、第六四回公判調書)、同女が最後にエレベーターホールを通った時間は、同女が壁の時計を見た時刻から判断して、大体午前八時四〇分すぎから五〇分ころの間であったと推測される。他方、森木も右と同じころ(森木の後記検察官に対する供述調書によれば、午前八時四五分ころという。)、ダストカートを押して道民ホール、玄関ホール、エレベーターホールの順で、床面に置かれたスタンド式灰皿の吸殻をダストカートの中に投げ入れてまわり、右ダストカートを業務用エレベーターの前に置きにいった帰りに再びエレベーターホールを通ったが、エレベーターホールの床上に物が置かれているのは見ていないというのである(森木の原審証言、第六四回公判調書、同女の検察官に対する昭和五一年九月二〇日付供述調書、原審検八七七)。
そして、大原公子は前記真田及び飯塚らとともに道の住宅都市部建築指導課に所属し、本件当日は講習会の準備のため、午前八時三〇分ちょうどころに登庁し、東玄関から本庁舎に入り西側エレベーターを使って自分の課にいったがエレベーターホールでエレベーターを待っていた人は他にいなかったように思う、講習会で頒布する法令集を両手に持って午前八時三五分ころ自分の課を出てエレベーターで一階に降りた、その後講習会場の自治会館まで二、三度往復したが、エレベーターホールの床にバッグなど変わったものがあった記憶はなく、気が付かなかった、最後に法令集を運んだときには、一階ホールはそろそろ混んできた感じだったが、エレベーター待ちしている人をよけて通るほどではなかった、法令集を自治会館へ運ぶとき、四号エレベーターの前を通るのに邪魔になるものがあった記憶はないというのである(原審第九五回公判調書)。
(五) 検討
本件バッグは、それと同種と認められるスポーツバッグ(原審検六八、符号一一七)の形状等から明らかなように、特段目立つバッグではないから、それがエレベーターの付近に置かれたとしても、特別の状況がないかぎり、人の注目を引くようなものではなく、関係証拠によれば、現に、本件当日爆発物が設置されて午前九時二分ころ爆発し、八〇余名が受傷したが、そのうち多数の者はエレベーターホールにいて被害に遭ったものであるから、床に置かれた本件バッグを爆発直前に目撃し得たはずであるのに、これを目撃した者は殆んどおらず、本件爆発物が現場に設置されてから爆発までの間にも、相当多数の道庁職員、外来者らがエレベーターホールを通ったと認められるのに、本件バッグの存在に気付いた者は少なく、捜査当局の綿密な聞き込み活動にもかかわらず、殆んど目撃者が現れなかったこと、しかも、午前八時四〇分過ぎころからは、エレーベーターホールは登庁する職員や外来者らで相当に混雑してきていたであろうことなどを考慮すると、掃除婦として一階エレベターホールの掃除に当たった森木、向井の両名及びエレベーターを使ってテキストの運搬に当たった大原ら建築指導課の職員が本件バッグの存在に気付かなかったからといって、右の者がエレベーターホールを通った時間帯に、本件バッグが四号エレベーター前付近に設置されていなかったということにはならないというべきである。ところで、右に明らかなとおり、前記真田、飯塚の両証人が目撃したバッグないしバッグらしい物の形状の記憶は区々であり、これらの者が捜査官に対し述べたところとも齟齬しているのであるが、右両証人とも、講習会場へテキスト運搬の際、通りすがりに見かけたに過ぎないのであって、その形状、置かれていた状況等の認識、記憶がどの程度正しいかについては疑問の余地があり、目撃後まもなくして爆発が起きたことによる記憶の混乱、証言までの時間の経過等をも考慮すると、いずれの証人とも記憶に相当程度の変容をきたしているであろうことは否めないと思われるのであって、いずれの証言内容がより正確であるとも言い難いのであるが、各証人の目撃の前後の現場の状況からすると、僅か一〇分くらいの短時間に形状の似かよったバッグないしバッグらしきものが、四号エレベーターの昇降口近くの同じ位置にかわるがわる置かれたとは考え難く、真田、飯塚の両名が講習会用テキストを運搬中、四号エレベーターの昇降口前を通りかかったときに目撃したバッグないしバッグらしい物が前記石沢が目撃した爆発物入りの本件バッグであったことは、ほぼ間違いないものと認められる。そして、この目撃の事実は、次に検討するように、バッグを携えた不審な二人連れが道庁西玄関から入るのを目撃したという前記の甲野証言と時間的にも符節がほぼ合い、その信用性を補強するということができる。
3 本件爆発物の設置時間
(1) 関係証拠によれば、当時、道庁本舎一階ホールは午前八時に開扉され、八時半ころから出勤者が段々に増えて、出勤時間の午前九時を少し過ぎたころが出勤者のピークとなること、同ホールで立哨する警備員は、午前八時二〇分ころ、守衛と引き継ぎのため地下の事務所へ降り、本来、警備員から引き継ぎを受けて午前八時三〇分から同ホールの警備につくことになっていた守衛は、当時、午前八時三〇分から午前九時までは、本庁舎三階の知事室の警備についていたため、午前八時二〇分頃から午前九時ころまでの間は、同ホールの警備は全く行われていなかったことが認められ、また、真田証人の原審及び当審における各供述によれば、同人は午前八時二〇分ころ守衛室へ部屋の鍵を取りに行き、エレベーターホールを往復したときには、バッグの置かれていることには気付かず、同四〇分ころ、講習会のテキストを自治会館へ運ぶため三号エレベーターで一階のエレベーターホールへ降りてきた際、四号エレベーターのそばのバッグにぶつかりそうになって、はじめてその存在に気付いたというのであり、証人飯塚の当審証言によっても、午前八時三〇分ころ、庁舎一階のエレベーターホールの四号エレベーター前に白っぽいレインコートの二人連れがいるのを見たが、バッグが置かれているような状況には気付かず(もっとも、同人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書にはこの点に関する記載がなく、当審証言に際しては記憶が変容していることも考えられるので、全面的に措信するわけにはいかないと思われる。)、同人が九階から降りてきて、そこにゴルフバッグのような黒い物が置かれているのを目撃したのは、真田が目撃したすぐ後で、午前八時四〇分すぎであったものと認められること等を合わせ考慮すると、爆発物入りの本件バッグが四号エレベーター前に置かれたのは、午前八時二〇分ころから同四〇分ころまでの時間帯(証人真田の原審供述などに徴すると、右時間帯の後半であった可能性が強い。)であったと認めて誤りないものと考えられる。
(2) 他方、甲野太郎は、不審な二人連れを目撃した時間に関して、自治会館を出たのが午前八時一五分から二〇分ころであり、同三〇分ころには自治会館へ戻ったと証言するのであるが、同人の司法警察官に対する昭和五一年四月一〇日付供述調書では、自治会館を出たのが午前八時二五、六分ころ、戻ったのが同五五分ころではないかと思うと述べて、一致しない。
しかし、右甲野は、自治会館を出た時刻及び戻った時刻については、いずれも時計などで確認したわけではなく、自治会館の地下食堂で朝食をとってから部屋で同僚と雑談した行動経過、散歩がてら航空券購入のため外出したが午前九時に自治会館に来るはずの迎えの車に遅れてはと思い途中で引き返した事情、戻ってから本件の爆発音を聞くまでの行動経過などから、これらの時刻を感覚的に割り出して供述しているものであるところ、先に述べたとおり、その後、現場の実況見分に立ち会い、さらに、原審における証言に先立って検察官とともに本件事件当日の経路を歩き、自治会館を出てから戻るまでの所要時間を計測したところ約一三分であったことから判断すると、昭和五一年四月一〇日付司法警察員に対する供述調書で述べたように、当日午前八時二五、六分ころ出て、八時五五分ころ戻ったとすると、外出に約三〇分かかったことになって右の計測結果と違いすぎることから、いろいろ考えたすえ、供述を変え、外出時間を早めて、午前八時一五ないし二〇分ころ出かけ、約一三分経過した三〇分すぎころに戻った旨証言したものであることが認められる(原審第七一回、第七二回各公判調書)。このように、同人の証言は、外出時間が計測上約一三分間であったことを考慮した結果、原初供述と異なる供述になったもので、出かけた時刻に関する原初供述が誤りで証言時の供述が正確であるとは必ずしも言いがたいと認められる。そこで、出かけた時刻を原初供述のとおり、午前八時二五、二六分ころと設定してみると、戻った時刻は約一三分を経過した八時三八、九分ころということになり、同人が戻った時から爆発音を聞いた時までの同人の行動経過などに照らしても、右外出時間帯の設定に格別不自然、不都合な点はない。したがって、当日朝、甲野が外出していた時間帯を分単位で正確に認定することは本件の証拠上困難であるが、叙上の事情を総合して判断すると、おおよそ午前八時一五分ころから午前八時四〇分ころまでの時間帯のうちの約一三分間であったと推認される。そして、甲野がこの外出の間に、バッグを携えた不審な二人連れが道庁本庁舎西玄関から入り、しばらくして出てくるのを目撃したことは、先に考察した本件爆発物が設置されたと推定される時間帯ともほぼ合致するということができる。
八道庁爆破事件当時から逮捕までの被告人の特異な言動について
1 捜査の進捗状況についての強い関心
関係証拠によれば、被告人は、道庁爆破事件に関する警察の捜査の状況についての記事が掲載されている「北海ポスト」昭和五一年五月号(原審検六三四、符号一八〇)、「月刊ダン」昭和五一年五月号(原審検六三五、符号一八一)等を入手して逮捕される直前まで保存していただけでなく、右「北海ポスト」の「道庁爆破事件の犯人像を追う」と題する記事中の「現時点で道警が押さえているブラックリストの中に犯人はいないのではないかと思われる。」、「道警爆破のとき、道警が組んだ特捜班は五百人、道警はじまっていらいの大特捜班だった。」、「しかも、犯行の規模や手口から見て複数というのも確実なところ。」等の部分には、黒色丸印を付していることが認められる。このような事実は、被告人がこれらの記事を熟読しており、本件事件の捜査の推捗状況に強い関心を抱いていたことを窺わせるものである。
2 可児町事件以降逮捕までの言動
関係証拠によれば、次の事実が認められる。
(1) 前記加藤三郎は、昭和五一年七月二日の前記可児町事件を契機に、自分の立ち回り先として被告人が捜査当局から取調べを受け、その爆弾闘争の準備が発覚することを危惧し、同年七月五日ころ、被告人に電話連絡し、可児町事件の顛末、特に被告人等の氏名が判明するようなメモの類は逃走に際して遺留していないこと、同事件に関連して美濃加茂の仲間数人が家宅捜索を受けたこと等を知らせ、同月七日ころ再度電話連絡して、捜査のうえで被告人の名は浮かんでいないもようである旨知らせた。
(2) そこで、被告人は、同月八日ころ、多治見の実家に電話をしてみたところ、義弟の件で警察が聞き込みに来たことを知らされたので、乙野方をしばらく留守にする旨伝えるとともに、乙野には、祖母が危篤と言い繕って上京した。被告人の原審及び当審の各供述によれば、その際に、家宅捜索を慮って、花火の火薬をほぐしたもの、マッチの頭薬を削り取ったもの、点火ヒーター、電池等を持ち出して投棄し(被告人は、スピネットを加工して作った時限装置を投棄したというが、その疑わしいことは既に述べた。)、指名手配されて逃亡中の右加藤と新宿区内で落ち合って話し合い、しばらく様子をみることとし、同月一〇日ころ勤務先と乙野方に連絡して、「帰るのが二、三日延びる。」などと伝えるとともにそれとなく警察の内偵の有無を探り、同月一九日ころ勤務先の山一パーキングに電話したところ、被告人が長期欠勤したため代りの者を雇ったと言われたので、急遽、乙野方へ舞い戻って山一パーキングに復職を出し出たが、同系統の会社のウエーターではどうかと勧められて、結局、退職することとし、同月二二日ころ実家と電話連絡したところ、警察官が調べに来て被告人の住所を知りたがっていることを知り、警察の手がのびることをおそれて乙野方を退去することを決意し、翌二三日ころ、右乙野花子に対して、祖母の容態がよくないので一時多治見に帰るなどと断って乙野方を出て、常用していた眼鏡を外してコンタクトレンズに替え、長めの頭髪を短くスポーツ刈りにして人相に変化をつけて上京し、再び前記加藤に会って善後策を話し合ったが、証人加藤の当審証言(第七回公判調書)によれば、その際、被告人は割に楽観的であったというのである。
(3) 同年八月三日、被告人は、もし警察の内偵がなければ乙野方に戻って居室に残してあるものを処分しようと考え、乙野方に電話して探りを入れるとともに、山一パーキングから送られてくる給料の残りを受け取ってもらいたい旨依頼し、さらに、乙野方に引っ越す以前に住んでいた小幡荘にも電話をして警察官が内偵に来ていないか探りを入れ、警察の手が回っていないことを確かめたうえで、同月六日、乙野方に戻り、消火器、硫黄入りの茶箱等、爆発物製造に関連するものを車に積んで札幌市郊外の山中に投棄したのをはじめ、同月一〇日、乙野方を引き払うまでに市内各所のごみステーションなどで所持品等を次々に投棄し(原判決別紙「投棄物一覧表」記載の物件は、その一部と認められる。)、警察官の監視、尾行に気付いてからは、ごみステーションに投棄した物件を塵芥回収車が回収するまで見張るなどし、この間、前記加藤には電話で、「ヤバイものは全部捨てた、自然なかたちでアパートを出て行く、大丈夫だ。」などと連絡したことが認められる。
被告人のこれらの行動は、被告人が本件事件に関与していないとすると了解困難な、本件捜査に対する異常に過敏な反応であるというべきである。
九被告人の経歴と行動、本件犯行の動機等について
1 経歴と行動
関係証拠によれば、次の事実が認められる。
(1) 被告人は、国立岐阜大学教育学部数学科に在学中、同じ教育学部の学生であった服部雅文と知り合い、昭和四七年三月卒業後も交際が続いたが、小・中・高校の教諭免許を取得したものの、内定していた教員にはならずに、土方作業に従事していたところ、同年六月ころ岐阜市内でデモに参加した際に加藤三郎と知り合い、同人に誘われるまま岐阜県美濃加茂市に移り、同人の斡旋でアパート日比野荘に間借りした。そして、右加藤の下宿先で開かれた「コンミューン美濃加茂」(後に「部族戦線」と改称。)の学習会に参加し、同グループに所属する太田早苗、土屋重則らと知り合い、ともに太田竜著「辺境最深部に向って退却せよ」等を輪読したり、ウイルヘルム・ライヒ著「性と文化の革命」の影響のもとに、より具体的な生活の変革を志向していたところ、次第に底辺階層社会に対する関心を強め、同年秋には、その生活実態を体験するために右加藤とともに名古屋の笹島、大阪の釜ケ崎などで土工夫として稼働するうち、関心の対象をアイヌ人、朝鮮人、沖縄問題等に広げ、やがて「アイヌ民旅解放のために闘う。」などと言い出して、昭和四八年四月ころ、北海道沙流郡二風谷を訪ねて、アイヌの生活実態に触れ、約二か月程北海道に滞在したのち離道し、同年七月下旬ころには再び来道し、そのころ既に来道して静内町に居住していた右加藤を訪ねたが、この折も約二か月ほど滞在して、同年九月中旬ころ北海道を離れた(その間の具体的な足取りについては明らかでない。)。しかし、そのころ、右加藤が名古屋において大麻取締法違反容疑で身柄を拘束されたことから、静内町の同人のアパートの整理に来て、そのまま約二週間ほど北海道に滞在したが(その間の行動も明らかでない。)、同年一〇月中旬に離道して、同月末には岐阜県多治見の実家に戻り、アルバイトをするなどしていたが、翌四九年一月自動車免許を取得したうえ普通乗用自動車を購入し、しばらく運送会社の運転助手をしたのち、同年五月には、偽名を使って美濃加茂市内の土木請負業者のもとに住込みで稼動したが、稼動先には九州へ行くと言いながら、懇意な前記太田早苗に対しては、北海道で闘争を展開するが一緒に闘争をやらないかと持ちかけ、前記加藤に対しては、本格的にアイヌモシリ対する日本の侵略の実態を調査し、アイヌモシリ侵略を討つ闘いの準備をするため北海道へ行くなどと言い置いて、同年六月末、単身、名古屋からフェリーに乗船し、車で北海道苫小牧市に向かった。
(2) 被告人は、当初、苫小牧市《番地略》所在の舟橋アパートに間借りして、鮮魚商岩花太三郎方(以下「岩花商店」という。)に自動車運転手として勤務していたが、前記服部雅文を介して前記太田早苗、加藤らと文通するなど連絡を取り合い、昭和四九年八月一〇日すぎころ、訪ねて来た右加藤とともに、札幌市内の北海道開拓記念像を落書で汚損することを計画し、右加藤が同月一六日未明、北海道静内町御殿山の「北辺開拓の礎」をハンマーで破壊に赴いている間に、札幌市に出かけて下見をし、ペンキのスプレーを購入して、一旦苫小牧に戻り、同月一八日、右加藤とともに札幌市中央区内の大通公園にある黒田清隆像及びケプロン像にスプレーのペンキで「アイヌモシリ独立万歳」等と落書するなどして、いわゆる北海道開拓記念像の落書汚損事件をおこした。
(3) 被告人は、同年八月三〇日に東京都千代田区内の三菱重工ビルを東アジア反日武装戦線と名乗るグループが爆破し、多数の死傷者を出したいわゆる三菱重工ビル爆破事件に刺激されて、次第に過激な武装闘争を志向するようになり、同年一一月九日以降は、はっきりした理由を告げないまま前記岩花商店を欠勤した。そして、同月一〇日には北海道神宮の放火事件が発生したが、その間の被告人の所在、行動は必ずしも明らかでない(被告人は、右放火事件当時は前記舟橋アパートの居室にいたと言い、放火事件への関与を否定する。)。しかし、関係証拠によれば、被告人は、同月中旬ころ岐阜県下の前記太田早苗方を訪れ、近くに住んでいた前記加藤と会った際、前記北海道神宮の放火には時限発火装置が使用され、ガソリンに点火するため線香が使われたなどと話したこと、そして、そのころ太田早苗宅に泊まった際にも、同女に対し、「北海道神宮に火をつけた。これからも北海道で闘争を続けていく。」などと語ったこと、同月下旬に前記岩花商店を退職して、同月末から同じ苫小牧市内の運輸会社に運転助手として就職したが、その年の暮ころ、当時美濃加茂市にいた右加藤に対して、前記服部を介し、被告人が北海道神宮を攻撃した旨の手紙とともに北海道神宮放火事件の写真が掲載された新聞記事の切り抜きを送っていることなどの事実が認められる。
(4) 被告人は、裸眼視力0.01、軽い乱視で、普段は眼鏡を常用しているが、昭和五〇年四月、苫小牧市内の眼科でコンタクトレンズを調製した。同年六月中旬ころ、前記運輸会社を退職し、右加藤、太田早苗らと事前に打ち合わせたうえで上京し、右両名と会い、右太田からかねて論文を読んで知っていた実方藤男に紹介されて四名で懇談し、その翌日、右実方と二人きりで会い、翌々日、再び右加藤と二人きりで会い、一緒に旅館に泊まって、同年五月一九日に逮捕された三菱重工ビル爆破事件の犯人のこと、同事件の評価のことなどについて話し合った後、独り名古屋から岐阜県美濃加茂市へまわり、大阪の釜ケ崎に行って泊まり、同年六月二〇日過ぎころ前記舟橋アパートに戻ったが、間もなく同アパートを引き払い、今後の闘争を続けるには、アイヌモシリ侵略の中枢である権力機関が集中している札幌に転居しなければならないとして、同月末ころ札幌市東区《番地略》所在のアパート小幡荘に転居し、同年七月初めから札幌市中央区内薄野にあるナイトクラブ「重役室」のウエイターとして、午後五時ころから午前一時ころまで勤務したが(公休は月二日間)、同年一〇月一八日に退職した。この間の七月一九日に前記道警爆破事件が発生したが、右事件を新聞で知って、被告人の犯行ではないかと心配して電話してきた前記加藤に対し、右爆破事件にはすごく感動したとその支持を伝えたが(当審証人加藤三郎の供述、第七回公判調書)、右事件の発生を知った前記太田早苗もまた、それまでの被告人の言動や右加藤、実方藤男等の話ぶりから被告人が右事件の犯人ではないかと思ったというのである(当審証人太田早苗の供述、第一三回公判調書)。
(5) 被告人は、前記クラブ「重役室」を辞めた直後の同年一〇月一九日から、同じ中央区内の駐車場山一パーキングに管理人として、隔日交替で午前九時から翌日午前一時まで勤務することとなったが、同年一一月三日、前記小幡荘から約六七〇メートル程離れた同市東区《番地略》の乙野次郎方の二階二部屋を借りて移り、逮捕に至るまで同所に居住し、この間、着々爆弾闘争の準備をすすめた。また、昭和五〇年一一月一七日ころ岐阜県下に居住する前記服部雅文から荷物二個、その約一週間後にも荷物一個を受け取った(検察官は、右荷物の中身は除草剤であったと主張するのであるが、送り主である右服部は、原審段階においては宣誓を拒絶して証言せず(原審第七九回公判調書)、当審においては、荷物の中身はホッチキス等を除いて全部、昭和四七年ころ岐阜市内で同じアパートに住んでいた被告人から預かった書類等であると供述し(第一一回公判調書)、被告人もまた原審及び当審において、これと同旨の供述をしている。しかしながら、関係証拠によれば、一回目の荷物二個の合計重量は八四キログラムもあり、書籍にしては余りに重すぎて不自然であるのみならず、右服部は発送をわざわざ二回に分けたうえ、発送駅を変えて送り、しかも二度目の発送の際には送り主の住所として友人の住所を記載するなど不審な点が多く、右荷物の点に関する右服部証言、被告人の供述はにわかに措信しがたいが、さりとて検察官の主張を積極的に裏付ける証拠はなく、結局、右荷物の内容物については、証拠上判然としないと言わざるをえない。)。
(6) 被告人は、昭和五一年一月中旬ころ、来札した前記加藤と会い、被告人の乗用自動車の中、北大の構内、喫茶店等で話し合い、札幌市内のサウナ風呂で一緒に一晩過ごしたが、加藤の来札の目的は必ずしも明らかでない。証人加藤の当審証言によれば(第七回公判調書、第二七回公判)、太田竜と実方藤男との論争が激しくなったので、自分の考えを被告人に話すために札幌を訪れたというのであるが、被告人と話し合ううち、東アジア反日武装戦線の三菱重工ビル爆破の闘争の評価をめぐり、加藤が消極的意見を述べたのに対し、被告人は同戦線の爆弾闘争を賞揚して、人の死傷をも含めて支持すべきだと反駁し、さらに、北大構内で食事した後、被告人が「道庁で昼飯食べたときに、道庁の偉いさんが飯を食っているのを見て、すごくむかむかした、あんなやつら爆弾で飛ばされてしまえばいいんだ。」などというので、たしなめたところ、気まずい雰囲気になったが、被告人がいよいよ爆弾闘争をすすめようとしていると感じ、帰途、当時宇都宮にいた前記太田早苗のもとに寄った際、同女に、被告人があまり過激なことをやらなければいいがなどと話したというのである(なお、当審証人太田早苗の供述、第一四回、第一五回各公判調書)。また、被告人の当審供述、証人実方藤男の当審供述によれば、前記加藤の訪問の約二週間後に右実方が被告人を訪ね、約三日間札幌に滞在し、被告人の車の中などで人目を避けて会談して別れ、帰途、右太田早苗のもとに立ち寄ったというのである。
(7) 具体的な入手の時期、入手先は、証拠上明らかでないが、被告人が、木炭、硫黄、セメント、乾電池等爆発物製造の材料及び金切りはさみ、ハンダこて、テスター等の工作用道具を所持していたことは、関係証拠から明らかであり、混合爆薬の主剤である除草剤も入手、所持していたことが、花柄ビニールシート及び花柄カーテンの付着物の鑑定結果等から認められることは、前叙のとおりである。
そして、リズム時計工業株式会社製の旅行用時計を時限装置に工作し、昭和五〇年一〇月から一一月ころにかけて、爆薬材料等の保管のために、茶箱を少なくとも四個購入し、同年一二月末ころ、北大構内の建物から本件事件に用いられたと同じハッタ式一〇LPI型消火器を少なくとも二本盗み出しそれぞれ所持したことなどは、被告人も認めるところである。
2 本件審理過程における被告人の言動
(一) 原審段階における被告人の言動
一件記録によれば、次の事実が認められる。
(1) 被告人は、昭和五一年八月一〇日、爆発物取締罰則三条違反の容疑事実により逮捕されて以来、捜査段階においては、事実関係等についてはもちろん、身上経歴に至るまで一切黙秘する態度をとり、原審第一回公判期日には出廷を拒否し、第二回公判期日(昭和五二年二月二四日)においては、起訴事実を全面的に否認したが、同第四回公判期日(昭和五二年四月二六日)には、本件事件はデッチ上げであって、本件起訴は、反日闘争や反日思想の封殺、圧殺をねらった治安弾圧であり、日本はその建国以来、原始共産制に生きる原住民を侵略征服し、植民地支配を続けてきているところ、千数百年にわたる犯罪の集合体である日本帝国の重要な権力機関、暴力装置の一つが裁判所であり、その裁判所に対して何かをお願いするつもりはないと述べた。
(2) 同第一一回公判期日(同年八月一一日)では、「道警本部爆破闘争、道庁爆破闘争とは、数世紀にわたってアイヌモシリを武力占領し、植民地支配、収奪し、アイヌ抹殺を企てている日本国家と日本人に対し、その内部から起こされた闘いであり、アイヌの原始共産制の復権実現を目指すアイヌモシリ独立の闘いに呼応連帯して闘われた日帝本国人による反日闘争であると、おれは考えている。道警道庁とは、軍隊、監獄、裁判所と共に日本国家のアイヌモシリの占領機関そのものである。また、道庁爆破の声明文は、その闘いが朝鮮人、中国人を強制連行し、炭鉱製鉄所などへぶち込んで、こき使い、虐殺し、今なお彼らを植民地支配している日本国家と日本人に対する闘いであったことを示している。」などと述べ、最後に、「文明階級社会に死を、革命を、日本国家日本民族滅亡、非所有社会実現」などと述べた。
(3) 同第一三回公判期日(同年九月六日)では、本件犯行声明文を朗読したうえ、「この闘いは、アイヌモシリ植民地占領機関の中枢の一つ道庁を強力に攻撃した日帝本国人による反日闘争であったと考える。私は断固、支持するものである。」などと述べ、東アジア反日武装戦線の闘いを反日路線に立つものとして高く評価し、自分の闘いも同じ立場に立つことを表明した。
(4) 同第二四回公判期日(昭和五三年四月二〇日)では、東アジア反日武装戦線が、沖縄海洋博の開催式典が開始される昭和五〇年七月一九日午後二時を狙い、海洋博開催及び日本帝国と日本人の沖縄再支配に対する抗議のために、アイヌモシリを占領し続けている日帝の暴力機関である道警本部を爆破したものであるところ、同年五月一九日に逮捕された東アジア反日武装戦線三部隊の闘いを直ちに引き継いだという点においても重要な意味を持っているものであるから、熱烈にこれを支持する、そして、アイヌにとっては呪うべき旧土人保護法が施行された三月二日に道庁に対する爆破攻撃がなされたが、北海道はアイヌの大地、アイヌモシリであって日本の領土ではない、明治二年日本国家は北海道開拓の実行機関、つまりアイヌとアイヌモシリの侵略、収奪の権力機関として、北海道開拓使をおいたが、その機能を引き継いだのが道庁であり、道庁は道民というアイヌモシリ占領者の権力中枢にほかならない、道庁爆破闘争は日本帝国主義国家、民族を打ち滅ぼし、水平社会を実現してゆくという反日の質をもった世界革命の大義に基づいた闘いであり、心から支持する、日帝本国のアイヌモシリの占領機関の中枢である道庁を今再び爆破せよ、などと陳述した。
(5) 同第五一回公判期日(昭和五四年四月二七日)では、被告人を道庁爆破の犯人として起訴したのは、政治的なデッチ上げであると述べつつ、東アジア反日武装戦線によって決行された道庁爆破闘争は、誰が実行したにせよ、日本と日本人、特に道民というアイヌモシリの侵略者、権力者たちのアイヌ人、朝鮮人、中国人に対する歴史的、また、現在的な犯罪に対する正当なる攻撃であって報復であり正義の闘いであり、日本国家のアイヌモシリ占領機関の中枢たる道庁などは何よりもまず最初に反日武装戦線によって攻撃されるべき目標であり、破壊しつくされるべき目標である旨述べ、三菱重工ビル爆破事件の実行者たちが、通行人を巻き込んで殺傷する結果を生じさせたことなどを理由に戦術としては失敗であったと自己批判したことを厳しく批判するとともに、同ビル付近は、日本国家の中枢が集まる丸の内の一画にあり第一級の侵略企業を将来にではなく、まさに今すぐに、丸ごと粉砕してしまうのは正義の闘いであり、反日闘争の観点から見てなんら不都合はない、三菱爆破闘争並びに道庁爆破闘争を支持する、狼達によって切り開かれた反日武装闘争は着実に拡大し、深化している、個々を統一的に発展させていくこと、反日統一戦線へと形成していくことは、これからの重要な課題である、道庁爆破闘争は正義の闘いであって本裁判所に爆破闘争を裁く資格はないなどと陳述した。
(6) さらに、同第一〇〇回公判期日(昭和五六年六月一一日)では、本件爆破事件で死亡した被害者五十嵐怜子の夫である五十嵐貴夫が、情状に関する証人として出廷し、検察官から、遺族として犯人に対しどのような処罰を求めるかと問われて、「最高刑を要求したいと思います。」と供述すると、被告人は反対尋問に立ち、本件犯行声明文を読み上げて、「この日本と日本人がアイヌから土地を奪った。これの頂点に立っているのが北海道庁である。そして、北海道庁の諸々の機能を担っているのが、それぞれの道庁の職員だという事実があるわけです。」と言い、この声明文のどこが納得いかないかと質し、さらに「道庁爆破によって奥さんが死んだ、だからその犯人に対しては極刑を望むという意見ですが、では日本の侵略によって土地を奪われたアイヌ、強制連行されてきて、ここでこき使われた朝鮮人、現在サハリンにも何万という朝鮮人が残されているんだけれども、そういう彼ら、また、日本の中国侵略、東南アジア侵略によって数千万が殺されているのだけれども、彼らが我慢できないと、おれたちの土地を奪った日本の侵略者、俺たちを殺した日本の侵略者を極刑にさしてやると主張した場合はどうとらえますか。」などと問いかけて、裁判長から制止されている。
(二) 当審段階における被告人の言動
右(一)に摘記したのは、被告人の原審公判廷における言動の一端であるが、このように、被告人は、自分が道庁爆破事件の犯人であることを極力否定しながらも、他方では、三菱重工ビル爆破、道警爆破等の爆弾闘争の支持を再三にわたり表明し、道庁爆破事件については、多数の死傷者を出したことを含め、これを強く支持する旨繰り返し述べてきたが、当審に至っても、当審第三三回公判(昭和六二年一月一六日)で、「このデッチ上げ弾圧、一審のデッチ上げ死刑攻撃に対する最も大切な反撃は何かと言えば、それは反日亡国闘争を展開していくことです。そういうような意味で私は道庁爆破を支持してきたわけです。(中略)道庁爆破は、断固たる武装闘争でした。たぶん、これまで日本人がやった闘いの中では最大の過激な闘いであったと思います。(中略)道庁爆破を支持し、そして不十分なところを(中略)更に補って深化させていく、そういう立場から私は道庁爆破を支持してきました。」と述べ、当審第三七回公判(同年四月二日)においても、道警爆破事件について、「やはりよくやったと思います。(中略)警視総監が東アジア反日武装戦線を壊滅したんだという壊滅宣言を出したわけですけども、やっぱり、そういうものを事実攻撃で打ち砕いていった闘いであります。それから、日本国と、日本民族によるアイヌモシリ占領、それに対する闘いでありました。(中略)ただ、思想的には、反日亡国ということが述べられておりませんし、東アジア反日武装戦線という戦線名が使われておりますから、そういうところは批判的に押さえておく必要があると思います。」、「反日亡国というのは、やはりどんどんあっちこっちで爆弾が爆発していくような状況の中でしか実現できません。だから、遅かれ早かれ、日本人民が何をわめこうが、三菱爆破とか、道庁爆破という闘いはどんどん起こって来ることになるでしょう。」などと、これまでと同様、道警、道庁両爆破事件の支持を繰り返し表明した。
そして、弁護人から、原判決が被告人の道庁爆破支持の言動を、犯行の動機があったことの証拠としてとらえているのに、被告人が道庁爆破の声明文を批判すべきところがあると言いながら、敢えてなお道庁爆破闘争の支持を表明することの理由を問われて、被告人は、「私の思想が道庁爆破と違っているということは、はっきりと述べて、道庁爆破は支持すると言っています。(中略)この裁判というのは、何を裁いているかというと、これはやっぱり、道庁爆破を裁く裁判であり、そして、日本と日本民族は、アイヌモシリを占領している。そのことに異議を唱える思想、闘いを裁いている裁判です。だから、私はデッチ上げで逮捕されているわけだけれども、私が守っていかなくちゃならないものが当然あるわけです。まあ、そういうようなことで、不利は承知で述べているわけです。」(同公判)、「自分に不利になるからといって、もし自分が口をつぐめば、裁判所で無罪が勝ち取れるかどうかといったら、国家権力というのは、そんな甘いものじゃないということです。(中略)もしも、私が獄中でも、一切利用されることを避けるために、口をつぐんだとしますと、私はもう、十何年間も、何も言えないということになります。そして結果的には、権力によるでっちあげで、死刑攻撃を受けると、そういうような全くばかげたことになってしまいますから、私はそういうような愚かなことはしないということです。それからこれが一番基本的なことですけれども、私はそもそも、反日亡国革命を目指したものなのです。だから、捕まったとしても、法廷なり、獄中で闘いを続けて行く。それが不利になるからといって、それをやめるようなことはできないということです。」(当審第三九回公判(昭和六二年五月七日))などと述べている。
3 本件犯行の動機の存在
以上の被告人の言動から明らかなように、被告人は、前記加藤、太田早苗らにアイヌ民族の解放、日本のアイヌモシリ侵略を討つ闘争を準備すると表明して、昭和四九年六月末、北海道苫小牧市に移り住んで以来、右両名らと連絡を取りつつ、運転手として表面はまともな市民生活をおくっているように装いながら、北海道開拓関係の記念像を汚損するなどの活動をおこなったが、同年八月末の東アジア反日武装戦線による三菱重工ビル爆破などに刺激され、次第にいわゆる武装闘争を志向するようになり、同年一一月一〇日の北海道神宮の放火は自分が行った旨、その実行方法なども含め右太田、加藤に語り、昭和五〇年六月末には、権力機関が集中している札幌に転居する必要があるとして札幌市東区内の前記小幡荘に入居し、昼間が自由になるナイトクラブに勤め、同年七月の道警爆破事件がおこると、心配して電話してきた右加藤に対し、右爆破の支持の気持を伝え、同年一〇月には、隔日勤務のパーキング場の管理人に転職し、まもなく同区内の乙野方へ移り、表面的には礼儀正しい好青年として、まじめなサラリーマン生活を送りながら、その後も、余暇を利用して、爆薬材料保管用に茶箱を購入し、同年一二月には本件事件に使われた爆体容器と同型の消火器を盗みだすなど、着々爆弾闘争の準備を行っていたことは、被告人自身認めるところであり、昭和五一年一月中ごろに訪れた右加藤に対しては、人の殺傷も含め東アジア反日武装戦線の三菱重工ビル爆破の爆弾闘争を賞揚し、道庁の幹部など爆弾でとばされればよいなどと述べるなど、被告人の言う「アイヌモシリ侵略の中枢機関」としての道庁ないしその職員に対する激しい憎悪の念と闘争心を露にしていたことが認められるのであって、しかも、被告人は、原審から当審にいたるまで、終始、道警、道庁両爆破事件の支持を表明していることは、先にみたとおりである。
そして、原審第一〇〇回公判期日において、証人として出廷した本件事件の犠牲者の遺族に対してとった被告人の前叙の態度は、たとえ自らも爆弾闘争を志向し、道庁を将来の攻闘目標として考えていたにもせよ、死傷者合計八三名をだした本件爆破事件の犯人とされて起訴され、まさに無実の罪を着せられるかもしれない立場に立たされ、その寃を晴らそうとする者のとる態度とは到底考え難いものと言わなければならない。
このような被告人の諸言動にかんがみると、被告人が本件事件を犯すについて十分な具体的動機があったことは明らかである
一〇太田早苗、加藤三郎の道庁爆破事件犯人についての認識及びその経緯
被告人と前記太田早苗、加藤三郎との交遊関係については、すでに述べたとおりであるが(前掲九の1)、この右両名が本件事件と被告人の係わりをどのような経緯でどのように認識していたかについて、関係証拠によると、以下の事実が認められる。
1 太田早苗の場合
関係証拠、とくに当審証人太田早苗の供述(当審第一三回ないし第一五回各公判調書)及び同人の検察官に対する各供述調書謄本(いずれも当審で採用した部分)等によれば、同女の場合、本件事件と被告人の係わりにつき、同女の認識とその認識に至った経緯は、およそ次のとおりであると認められる。
(1) 岐阜県美濃加茂市において、前記加藤らが中心となって、コンミューン美濃加茂が組織され、太田早苗も右組織に加わり、アイヌ問題、朝鮮人問題等差別に関する問題点を中心に読書会を開くなどの活動をしていたところ、昭和四七年ころ右加藤から紹介されて被告人を知った。被告人は、当時、コンミューン美濃加茂の仲間うちでアキと呼ばれ、他の仲間からは少し離れた存在であったが、右加藤とは個人的に親しく、太田、加藤らに対しては、アイヌ民族解放のために戦うなどと表明し、昭和四九年六月ころ、「北海道で闘争を展開する。」などといって北海道へ旅立った際、太田も誘われたが断った。
(2) 昭和四九年八月三〇日に三菱重工ビル爆破事件が起き、右グループの仲間の間でその是非をめぐって議論がたたかわされたが、次第に爆弾闘争を支持する者が多くなり、太田自身も、反日闘争のためには、爆弾闘争もやむを得ないと考えるようになった。また、太田と前記加藤は、橋根直彦、宋斗会の支援活動などを通じて実方藤男と知り合った。
(3) 太田は、被告人が北海道へ去った後も、前記服部雅文を介して被告人から右加藤にもたらされる手紙などで被告人の消息を知っていたが、同年一一月中旬ころ訪ねてきた被告人から北海道神宮にガソリンを用いて放火したこと、これからも北海道で闘争を続けていくつもりであることなどを聞かされ、さらに、同年暮ころ右加藤宛の被告人の手紙に、北海道神宮を攻撃した旨書かれ、右放火事件に関する新聞の切り抜きが同封されているのを見て、被告人から聞いていた北海道神宮放火事件のことだなと直感した。
(4) その後、太田は、右加藤が美濃加茂市を離れたこと、コンミューン美濃加茂の仲間の一人からうるさく付きまとわれて煩わしくなったことなどから同地を離れ、昭和五〇年五月ころ、単身上京して、前記実方の紹介で同人の知人方に世話になっていたところ、同年六月中旬ころ、右加藤、実方とともに被告人と会うことになり、北海道から上京した被告人と上野公園で待ち合わせ、実方を紹介した後、四人で飲んだが、その際、太田の記憶によれば、反日闘争のために爆弾闘争を進めていくという話になり、反日闘争を「大森さんは北海道でやり」、「加藤君は本土の方でやる」こと、被告人が「闘争の目標として道警、道庁を考えている」ことなど話題になったというのである。その後、太田は沖縄の実情を知りたく思い、単身、沖縄に渡って、コザ市(後の沖縄市)に滞在していたところ、同年七月中旬ころ道警が爆破されたニュースを知って、これまでの被告人の言動、とくに東京で会合した際の同人の様子などから、当然、被告人がやったと思った。
(5) 道庁爆破事件の起きる一、二か月前ころ、前記加藤が、被告人を札幌に訪ねた帰途、当時宇都宮市内のアパートに住んでいた太田を訪ねて来た際、被告人のことに話が及んだが、加藤は、「アキがそのうち道庁をやるつもりでいる。アキは昼に道庁の食堂に爆弾を仕掛けると言っていたが、人がたくさんいるから、食堂はやめた方がいいと反対した。人がたくさんいるときに爆発させることは不安であり、アキのやることには疑問を持つ。わざわざ人の多いときにやることはない。」、「アキは道庁爆破の日として旧土人保護法制定の日を考えているようだ。除草剤(爆薬)はトウマ(コンミューン美濃加茂当時の仲間のひとり土屋重則のこと)さんが都合をつけた。アキが人の多いときにやることについては、トウマさんも心配している。」などと話し、また、その後しばらくして、札幌で被告人と会ってきた前記実方が訪ねて来て、「北海道で大森君と会った。旅館に二人で行くと変に思われるので、サウナに行って色々なことを話してきた。今度、北海道で何かある。」と、事件の発生をほのめかすような言い方をしたが、本件事件発生の前日に再び同人が太田のアパートに訪ねてきて泊まり、事件当日の午前中、ラジオで道庁爆破のニュースを一緒に聞いた際、実方は「ああ、やったな。」と言い、太田も、実方や、加藤が言っていたのは本当だったのだな、被告人がやったなと思った。前記可児町事件の後、加藤と二人して宇都宮の喫茶店で被告人からの電話連絡を受けたこともある。
ところで、太田は、当審において証言して、右に認定した当時の同女の認識につき、その大部分についても、もともと記憶がなかったのに調書にとられてしまったとか、検察官に述べた記憶がないなどと弁解する。しかしながら、同女の取調べに当たった検察官相川俊明の当審証言(第一七回公判調書)に徴すると、当時、同女は、自分の関与した事柄については率直に述べて一切を清算したいとの心境にあり、検察官から問われたことについて、慎重な態度で、誠実に供述したことが認められ、ことに被告人に関する事柄については、検察官がそれまで未知の事実についても述べているのであって、同女の任意に述べないことが調書に記載されたと疑うに足りる証跡はなく、同女がその供述調書に記載された内容の供述を検察官に対しておこなったことは明らかというべきである。そして、そこに述べられた同女の認識ないし記憶の内容が客観的事実に合致するか否かはさておき、太田早苗は、叙上のような経緯、根拠の下に、道庁爆破事件の発生を知った時から、その犯人は被告人であると認識し、その認識をもとに行動していたことが認められる。
2 加藤三郎の場合
関係証拠、就中、当審証人加藤三郎の供述(当審第七回公判調書、第二七回公判)等によれば、およそ次の事実が認められる。
(1) 前掲九の1のとおり、加藤は、被告人とコンミューン美濃加茂のころから親しく交際し、被告人が北海道に移ってからもしばしば連絡し合い、昭和四九年八月ころには、当時苫小牧市に居住していた被告人を訪ね、単独で、北海道静内町にある開拓の記念碑をハンマーで壊したのをはじめ、被告人とともに札幌市大通公園の黒田清隆像及びケプロン像をペンキスプレーで汚損した。被告人から、爆弾製造の方法を詳しく記載した「腹腹時計」(技術篇)、「薔薇の詩」の入手方を頼まれており、同年秋ころ前記実方からそのコピーを入手したものの、これを被告人に渡すと武装闘争を具体的に準備するのではないかと慮り、すぐには被告人に渡さなかった。昭和五〇年六月中旬ころ、東京都内で、前記実方、太田とともに、上京して来た被告人と会い、その翌々日は、被告人と二人だけ旅館に泊まり、三菱重工ビル爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線の評価等について話し合った。同年七月一九日の道警爆破事件を新聞で知り、一瞬、被告人が犯人ではないかと思ったが、東アジア反日武装戦線の名義で声明文が出ていることを知り、被告人ではないと思い直した。それでも一週間くらいしてから、クラブ「重役室」の被告人に電話してみると、被告人はすごく感動していた。
(2) 加藤は、昭和五一年一月六日、単独で平安神宮に放火したが、いわゆる爆弾闘争には壊疑的であった。その後、同月中旬ころ、札幌に被告人を訪ねて話し合った際に、被告人が三菱重工ビル爆破事件を死傷者を出したことを含めて支持すると述べ、道庁のエライさんなんか爆弾でぶっとばされればよいなどと言うので、これに反駁しておいたが、爆弾闘争をすすめているとの印象をもった。そして、加藤は、帰途、前記太田のもとに立ち寄って、同女に対し、被告人が人の多い所で爆弾を爆発させることを考えているのではないかと思う、不安だなどと話した。平安神宮放火の後、犯行声明の電話を二か所にかけ、犯行声明文を出したが、なんの反響もなかったので、黙殺されたと感じ、「もう少しちゃんとした闘争やらないと駄目だ」と思い、爆弾闘争を決心し、準備にかかった。
(3) 加藤は、兵庫県下の明石で働いているとき、本件事件を新聞で知ったが、見出しを見たとき、被告人が関係しているのではないかと思った。その後、道警爆破事件と同様、東アジア反日武装戦線の名義で声明文が出たことを知り、被告人の犯行ではないと思ったものの、心配が解消しなかったため、事件の一週間くらい後に、山一パーキングの被告人に電話し、「道庁爆破闘争はすごく気が重いし、このような闘いは革命運動のマイナスになる」、「この闘争を支持することができない」と自分の気持を伝えたところ、被告人は、この闘争を支持する、この闘いをやった者にすごく共感できるなどと述べていた。このこと自体について太田に話したことはないが、同女もこの事件の犯人が被告人ではないかと心配していた。
その後、除草剤、硫黄、木炭などを調達して爆弾作りにとりかかったが、精神的に疲れてしまい、警察が身辺の聞き込みをしていることを知って危険を感じ、もう駄目だと感じたが、材料等を用意してくれた人のことを思うと捨てもならず、作業を中止して爆弾作りの材料一式等を可児町所在の洞穴に隠しておくため運ぶ途中、警察官に職務質問され、右材料等(除草剤一〇キログラムを含む。)を全部遺留して逃走した(前記可児町事件)。
(4) 加藤は、同年七月二日、右可児町事件を起して指名手配されたため、その立ち回り先として被告人が捜査の対象になるかもしれないと慮り、被告人にしばしば電話連絡して捜査の進捗状況等を知らせ、東京で二度被告人と会って情報を交換し、危険な物は投棄したと連絡を受けて安心していたところ、同年八月一〇日被告人が逮捕され、その後、道庁爆破の犯人として起訴されるに及び、前記可児町事件がその契機となったことに痛く責任を感じ、爆弾闘争にはもともと懐疑的で、前叙のいきさつから一旦は断念したにもかかわらず、独りででも反日武装闘争を闘っていかねばならないと決意し、同年九月ころには再び除草剤二〇キログラム、硫黄五、六キログラム等を入手して爆弾闘争に踏み切り、再度入手した「腹腹時計」などを参考に爆発物を製造し、昭和五二年一月一日京都で梨木神社爆破事件を敢行したのを手初めに次々と爆弾事件を敢行し、起訴された爆破事件だけでも六件を数える。
(5) 加藤は、長い逃亡生活を続けるうちに武装闘争の誤りに気付き、いわゆる反日思想からも脱却したが、被告人の裁判の成り行きに関心を持ち、もし被告人に死刑判決が出たら、警察へ自首して出て、被告人に爆弾闘争とは別の素晴らしい世界があることを語り、反日亡国の闘争の誤りを悟らせて、被告人を救おうと考えており、同じく逃亡中であった右太田にもその旨を伝えた(太田早苗の加藤宛手紙文謄本(当審検一〇七)は、加藤が伝えた右のような心境について言及した太田の手紙である。なお、関係証拠によれば、加藤と太田は、原判決の約一か月半後、昭和五八年五月一六日に別々の場所で逮捕されたことが認められる。)。
3 小括
太田早苗、加藤三郎の両名は、いずれも昭和四七年当時からコンミューン美濃加茂の活動を通じて被告人と知り合い、交際を深めて、反日闘争を共に闘う同志としてその人柄、信条を理解し、被告人が北海道へ移り住んでからも昭和五一年八月初旬逮捕される直前まで密接な連絡を保ち、被告人が爆弾闘争を志した経緯、闘争活動等の具体的内容についても相当程度把握していたことは、右両名の被告人との関係から明らかであるところ、両名とも当審において証人として出廷し、それぞれ証言したが、被告人の北海道における武装闘争ないし爆弾闘争に関する質問に対して、被告人の面前で、その知るところ総てをありのまま供述したとは考え難い。しかしながら、それでもなお、前叙のとおり、右両名とも本件事件の発生を知った時には、被告人がやったのではないかと思ったと、それぞれ証言しているのである。
右加藤は、当審において、犯行声明文の作成名義が東アジア反日武装戦線であることが後でわかって、被告人が犯人ではないと考えた。被告人に電話してみて被告人ではないと了解したなどと供述するのであるが(当審第七回公判調書)、先にも述べたように、右加藤は、本件事件発生の一、二か月前に被告人を訪ねた際、被告人が三菱重工ビル爆破を強く支持するとともに、道庁の偉いさんなんか爆弾でぶっとばされればよいなどと激しいことを言ったことなどから、爆弾闘争を進めていることを感じたというのであり、右太田も、加藤、実方(同人が、加藤の約二週間後に被告人を訪ねたことは、先に認定したとおりである。)の双方から被告人の動静について報告を聞き、いずれも被告人の最近の爆弾闘争計画について相当程度知っていたことが窺われるのであって、この両名が本件事件の発生を知った際、被告人がこれを敢行したとそれぞれに直感したということは、見逃すことのできない事実であるといわなければならない。
しかも、右加藤は、昭和五一年七月二日の可児町事件で逃走した直後から被告人の身の上を案じて度々電話連絡をとり、同月二度にわたり上京してきた被告人とその都度会っており、このことは、被告人、当審証人加藤とも当審公判廷において認めるところであるが、その際には、会合のいきさつ上、また両名の密接な同志関係に徴しても、被告人の北海道における爆弾闘争の実際に関し、相当突っ込んだ話し合いがおこなわれたことは容易に推認できるのであって、遅くともこの会合の際には、右加藤は被告人から道庁爆破事件との係わりの有無に関して、事の詳細を聞知し、認識したと認められるのである。その加藤が、可児町事件における自分の過ちがもとで被告人が逮捕されたと責任を感じ、一旦は断念しかかった爆弾闘争に踏み切り、このような闘争から何か変革が起こるとか、目的が達成されることはないと思いつつも、失敗の責任感、義務感、罪悪感から爆弾事件を累行したというのであって(当審第二七回公判)、加藤がこのような自己破滅的な途をたどったのは、昭和五一年三月本件事件の発生を知ったとき以来、犯人は被告人であると考え、その後同年七月に被告人と会合して事情を聞いてからも、依然としてその認識は変わらず、被告人が逮捕され、起訴されたことを知ると、所詮、極刑を免れないと予測して、被告人逮捕の契機をつくった自責の念いよいよ強く、自分の進む途はこれしかないと思い詰めた結果にほかならないと考えられる。そして、被告人の原審の公判審理が進み、右の予測がいよいよ現実味を帯びるにしたがい、このうえは、自首して出て、逃亡中の自分の生活経験を語り、被告人を説得すれば、反日亡国の爆弾闘争とは別の世界があることを、被告人も「ある程度わかってくれるんじゃないか」、「彼がそういうことを分かってくれれば、裁判の様相も違ってくるだろうし、(中略)いろんな状況が変わってきて、彼の状況がすごくよくなっていくんじゃないか」、「彼が第一審ですごく道庁爆破を支持したりして、裁判官の心証を悪くしたんじゃないかと思いましたから、そういうことが変わってくるんじゃないか、もし彼が自分の思想のすごい誤りみたいなものに気付いていけば、いろんなことが変わってくるんじゃないかというふうに思い」(当審第七回公判調書、第二七回公判)、被告人の考えや闘争方法の誤りを悟らせ、公判に臨む態度を変えさせることによって、何とか極刑だけは免れさせたいという心境になり、これを、前記のとおり、闘争の同志である太田早苗にも伝えたものと認められる。加藤は、当審における証言を終えるに当たり、特に被告人に言いたいと断って、「ぼくは、大森君に言いたいんですけど、アイヌモシリという言葉、ぼくは今でも好きです。それから、アイヌモシリという、アイヌの言葉の中にレシュパモシリという言葉があります。レシュパモシリというのは、あらゆるものがお互いを育て合う、そういうような世界だと思うんです。で、私はそういう世界に生きていきたいし……、そういうことを、今、本当に思っています。それだけです。」(当審第二七回公判)と述べて、証言を結んだのも、その心情の真摯な披瀝であると認められるのである。
一一証拠評価の総括
(1) 以上詳細に検討を加えたが、前掲五で明らかにしたように、被告人が本件事件の爆体容器に用いられたと同種、同型の消火器二本を昭和五〇年一二月ころ北大構内の建物から盗みだして前記乙野方二階の居室で所持していたこと、本件で用いられた混合爆薬の材料である硫黄、木炭を多量に所持していたこと、塩素酸ナトリウムが右居室で被告人が所持ないし管理していた物件に微量ではあるが付着していたことが推認されることなどから、被告人が、本件事件当時、高濃度塩素酸塩系除草剤を所持していたと認められること、右居室に遺留されていた被告人の布団袋の中からリズム時計工業株式会社製小型置目覚時計(ツーリスト〇二四などの旅行用時計を含む。)用のリン止め用マイナスネジ一本(頭部の溝にドライバーでつけたと思われる痕があるもの)が発見され、他方、本件爆発物の時限装置に使われた旅行用時計ツーリスト〇二四のリン止め用のマイナスネジは取り外され、代わりにケース止め用ネジと推認されるプラスマイナスネジが取り付けられていて、布団袋の中から発見された右マイナスネジは、本件爆発物の時限装置に使われたツーリスト〇二四から取り外されたものではないかと推認されること、被告人の投棄物件の中から発見された簡便ナイフホールダーの一部が金切りはさみで切り取られており、その切り取られた鉄板片の一部が行方不明であるところ、本件爆発物の時限装置の構造と先に指摘した被告人の不合理な弁解(前掲五の5)に徴すると、行方のわからない右鉄板片が本件爆発物の時限装置の接点に用いられたのではないかという疑いが強く持たれること、また、被告人が乾電池、テスター、計量カップ、金切りはさみ等、爆発物製造に必要ないし有用な道具類を揃え、それらの状態から相当使い込まれた形跡が窺われることに加えて、その所持していた文献類、メモ類などから、爆発物製造に関する知識の習得に努めたことが窺われ、被告人が、本件事件が発生する以前に、混合爆薬を用いる爆弾製造法を図入りで解説した「腹腹時計」(技術篇)、「薔薇の詩」のコピーを入手していたことを自認していることなどを併せ考えると、被告人は本件程度の爆発物を作るに十分な知識と技能をそなえていたと認められること、などの事実が肯認される。
これらの事実にその余の状況証拠を総合すると、被告人が本件爆発物を製造したことを推認するに十分である。
また、前掲六で検討したとおり、被告人には、書籍類へ書込みを入れ、あるいはノートなどをとる際に、「*」印記号を常用する習癖が認められるところ、本件犯行声明文にも手書きの「*」印記号が三か所に書き込まれていて、記された記号の大きさ、筆順、書き込みに使われたボールペンのインクの質などの点で、両者に共通点が認められ、被告人をめぐるその余の状況証拠と相俟って、被告人が本件犯行声明文の「*」印記号を記入した蓋然性が相当大きいと認めることができること、本件犯行声明文と道警爆破事件の犯行声明文はいずれもテープライターで幅九ミリメートルの黒色テープに打刻された片仮名文字で構成されており(本件犯行声明文には、一部に数字を含む。)、その所在場所、通告電話、作成名義、内容などの点で共通する特徴が認められるのみならず、鑑定の結果によれば、両声明文はダイモジャパン・リミテッド社製の同一、特定の片仮名文字盤を用いて打刻された可能性が強いことなどから、同一人物の関与が窺われるところ、先にみたとおり、道警爆破事件の声明文に関する通告電話の送話者の音声と被告人の音声が類似しているなどの事実が認められる。
してみると、本件事件の犯人が作成したと認める本件犯行声明文は、書き入れられた「*」印記号の点で、被告人との結び付きが窺われるだけでなく、道庁爆破、道警爆破の両犯行声明文の打刻に用いられた片仮名文字盤が同一であると推認されること、そして、道警爆破の犯行声明文の所在場所を告げる電話の送話者の音声が被告人のそれに類似することなどの点からも、被告人との結び付きが窺われる。
以上を総合すると、その余の状況証拠とも相俟って、被告人が本件犯行声明文の作成に関与したことを推認するに十分である。
また、前掲七において検討したとおり、前記藤井証人は、本件事件当日、本件爆発物が爆発する約半時間前、バッグを携えた二人連れの男が道庁本庁舎西玄関に出入りするのを目撃しており、そのうちの一人が被告人に非常によく似ていると証言するところ、本庁舎一階エレベーターホールの四号エレベーターのそばで爆発物入りの本件バッグを見かけた道庁職員の証言等とも併せ考えると、右藤井の目撃証言の根幹をなす部分の信用性は相当に高いと認めることができる。
(2) 翻って、前掲九で考察したように、被告人は、昭和四九年六月末、「アイヌモシリ侵略を討つ闘い」のため北海道へ移り住んで以来、東アジア反日武装戦線グループの三菱重工ビル爆破などに刺激されて、その闘争は過激の度を強め、爆発物製造の知識、技能の習得に努め、爆発物製造のための各種材料、工具類等を調達し、前記加藤に対して死傷者をだすことを含めて爆弾闘争を賞揚し、前記のとおり着々爆弾闘争の実行を計っていたことは、関係証拠に明らかであるのみならず、被告人も大綱において自認するところであり、その爆弾闘争の具体的対象の一つとして道庁を目していたことも明らかである。また、被告人が本件の公判審理の過程においても、終始、道警、道庁両爆破事件の支持を表明していることは、前叙のとおりであって、被告人には、本件事件を犯すについて十分な動機があったものと認められる。そして、本件事件の当日、被告人は非番で出勤しなかったが、本件爆発物の爆発した九時二分ころを中心とする時間帯の被告人のアリバイは、後に検討するように、明らかとは言いがたいのみならず、前掲八でみたとおり、事件当日以来、被告人の捜査の動向、進捗状況に対する関心の度合い、対応の仕方は、被告人が爆弾闘争を志向していたにもせよ、本件事件自体に無関係な者のとる態度としては、異常なものと言わざるをえない。
(3) しかも、反日闘争を共に闘う同志として、被告人と深く意思を通じ合い、被告人が北海道へ移り住んでからも、被告人が逮捕される直前まで密接な連絡を保ち、その爆弾闘争の具体的内容についても相当程度把握していたものと推察される前記加藤、太田早苗の両名が、いずれも、本件事件の発生を知ると、被告人が犯したとそれぞれに直感し、ことに加藤は、被告人が逮捕されて起訴されると、極刑を予測して可児町事件の責任を痛感し、自ら絶望的な爆弾闘争の途に身を投じたいきさつは、前掲一〇において詳しく検討したとおりであって、これらの事実は、被告人の本件関与を推認させる重要な徴憑事実というべきである。
(4) 一般に、時限装置付き爆発物による殺傷事件では、被害が発生して犯罪が発覚した時点には、犯人は既に犯行の現場から遠く立ち去っており、しかも現場の証拠物は爆発と同時に飛散して、犯人追求の手掛かりを得ることが著しく困難であり、勢い、犯人の特定に困難が伴うことは否定できず、本件もその例外ではない。
しかしながら、以上の検討から明らかなように、本件においては、本件事件と被告人との結び付きに関する証拠の一つ一つは、犯行現場に残された犯人の指紋のように殆どそれのみで結び付きを証明できる程の決定的な証拠ではないけれども、これらを総合し、積み重ねることにより、本件爆破事件が被告人によって企画され、被告人によって本件爆発物が作られ、これらが被告人によって爆発現場まで運ばれて設置され、時限装置の作用により爆発したことについては、証拠上疑いを容れない程度にまで明らかになったということができる。
以上の次第で、当裁判所は、慎重に検討を重ねた結果、被告人の本件事件の犯行、加担の有無、その役割等の点の事実認定において、原判決と同旨の結論に達したが、各所論にかんがみて、さらに項を改めて、所論の容れ難い理由を説明することとする。
一二事実誤認の各所論に対する判断
(証拠の採用に関する手続違法の主張に対する判断を含む。)
1 アリバイの主張について
所論は、被告人にはアリバイがあるというのである。すなわち、被告人は、本件事件の前日である昭和五一年三月一日は勤務先である山一パーキングに出勤し、平常どおり翌二日午前一時三〇分ころ、自分の普通乗用自動車で乙野方の自室へ戻って就寝し、同日は非番であったため午前八時五〇分ころ起床して朝食をとり、午前九時三〇分ころ散歩がてら外出したもので、本件爆発物が道庁本庁舎一階エレベーターホールの爆発現場に設置された時刻ころには、右乙野方二階の自室にいたから、被告人にはアリバイがあることは明らかであるのに、被告人が本件爆発物を爆発現場に設置したと認定した原判決には、事実の誤認があるというのである(弁護人提出の控訴趣意書第一章第二(以下、「弁護人趣意・第一章第二」と略記する。略記の要領はその余の所論についても同じ。)、被告人提出の控訴趣意書第七(以下、「被告人趣意・第七」と略記する。略記の要領はその余の所論についても同じ。)及び最終弁論第五(以下、「最終弁論・第五」と略記する。略記の要領はその余の所論についても同じ。))。
そこで検討するに、前叙のとおり、本件爆発物が前記の爆発現場に設置されたのは、昭和五一年三月二日午前八時二〇分ころから四〇分ころまでの時間帯であったと推定されるところ、証人乙野次郎の原審証言(第七六回公判調書)、被告人の原審供述(とくに第一〇四回公判調書)、検察官作成の捜査報告書(原審検九四五)をはじめ関係証拠によれば、右乙野方は札幌市東区《番地略》にあって、道庁までは、直線距離約三キロメートル、所要時間は、地下鉄を利用して約二十数分、自動車を利用すれば約一四、五分であるから、本件爆発物が設置されたのが前叙のとおり午前八時二〇分ないし四〇分ころとすると、右時間帯の前後二〇分(本件爆発物と一緒にバッグに入れてあった事件当日の日本経済新聞の朝刊を被告人自身が駅売店などで購入したとして、その時間を含む。)を加えた午前八時ころから同九時までの間、所論のとおり乙野方に居たことが明確になれば、本件爆発物の設置についてアリバイが成立する可能性が極めて高いことになる。
被告人の供述によれば(原審第一〇二回ないし第一〇四回、第一〇七回ないし第一〇九回各公判調書、当審第三二回、第三九回各公判)、本件事件の前日の三月一日は出勤日で通常どおり勤務し、同二日の午前一時半ころ右乙野方の居室に帰って就寝し、目覚まし代わりにセットしてあるテレビの音で午前八時五〇分ころ起床し、朝食を終えた後、午前九時三〇分すぎころ、北区北二四条通の本屋に月初めに発売される月刊誌を見に行こうと散歩がてら外出し、女主人のいる喫茶店にも入ったように思うが、その後、午前一〇時三〇分すぎころ東区北二五条東三丁目の市民生協に立ち寄って食料品を買い、同店の西側隅にある電化製品売り場に展示してあるテレビのニュース速報で、本件事件の発生を知り、居室へ帰ってニュースを見ようと思い乙野方へ戻ったが、玄関のところで乙野花子から声を掛けられた、そして二階居室のテレビで道庁爆破のニュースを見た、そして午後四時ころ外出する際、右花子から本件が起きたのを知っているかと尋ねられた、というのである。
ところが、本件爆発物が設置されたと推定される当日午前八時二〇分ないし四〇分を中心とする前記の時間帯に、被告人がどこで何をしていたか(被告人の言い分によれば、前叙のとおり、まだ乙野方二階の居室にいたことになる。)については、被告人の右供述のほかには、被告人の日常の生活ぶりに関する家主の乙野次郎、花子夫婦の原審及び当審における各証言があるにとどまる。
関係証拠によれば、本件事件発生当時、被告人が居住していた乙野方は、札幌市東区内の比較的交通量の少ない住宅地域にあり、東向き、間口約6.3メートル、奥行約10.8メートルのトタン葺木造モルタル一部二階建家屋で、階下は一二畳の居間、六畳の台所、六畳の和室二間と便所、風呂場等があって、家主の乙野夫婦が居住し、二階には六畳の和室二間のほか、廊下、便所、流し台などが付属していて炊事ができるようになっており、被告人が右二間を借りて一人で居住していること、玄関はガラス戸二枚を中央部で重ねて、捩込み式の錠が付いており、鍵を差し込んで回転させることにより建物の内部外部いずれからも開けることができること、玄関を入って右横の幅約0.8メートルの階段を上がると北側に幅約0.8メートル、長さ約6.3メートルのフローリング敷きの廊下があって、これに接して六畳二間が東西に並んでおり襖で仕切られていること、東側六畳間の出入口は一枚引戸、西側六畳間の出入口は一枚開戸で、建物の構造上、日常、被告人の玄関の出入り、二階の上がり降りの音、二階の生活音などは、階下の乙野夫婦にも聞こえる状況であったこと、被告人は、前叙のように、中央区内のパーキング場に隔日勤務していたので、出勤日には、右乙野方前の道路脇に停めておく被告人所有の普通乗用自動車で出勤するが、午前八時一五分から三〇分まで放映されるNHKのテレビドラマ番組が終わるころ乙野方を出て、翌日の午前一時三〇分ころ帰宅するのが例であったことが、それぞれ認められる。そして乙野次郎(第七六回公判調書)、乙野花子(第七七回公判調書)の原審における各証言によれば、被告人は、出勤にあたって、毎朝八時一五分ないし二〇分ころ出勤する右乙野次郎よりも先に乙野方を出たことは殆どなく(なお、乙野次郎の原審証言によれば、同人が出勤する前に被告人が車で出掛けたことが何度かあるというのであるが、被告人の反対尋問にあって、そのようなことがあったのは、被告人の逮捕直前の昭和五一年八月六日以降の分を含んでいるかもしれないと述べた。第七六回公判調書)、また、被告人は、乙野夫婦から玄関の鍵を持たされており、戸締まり後帰宅しても自分で自由に外から玄関の戸を開錠して中へ入ることができ、乙野夫婦は、次郎の場合は通常午前六時ころ起床し、午後九時ないし一〇時ころ就床しており、花子の場合は通常午前六時ころ起床し、夜は午後一一時ころまでテレビを観てから就床するのが常で、時に被告人の夜勤明けの帰宅に気付くこともあったが、三月一日の夜勤明けに、被告人がいつものように帰宅したか否か、あるいは帰宅のうえ朝になって外出したか否かについては、いずれともはっきりした記憶がないというのである。
また、右乙野次郎、花子の原審及び当審における各供述によると、花子は、それまでに一度、吹雪いた翌朝、玄関を開けるとき被告人の靴がないことから帰ってきていないことに気付いたことがあり、後で被告人に質すと、一旦帰ってきたが鍵を忘れたことに気付き、乙野を起こすのを憚って、サウナに泊まったと言ったのを覚えているが(前記加藤の当審証言等に照らし、この外泊は、昭和五一年一月中旬ころ、右加藤が被告人を訪ねてきて、一緒にサウナで過ごしたときのことであろうと思われる。)、それ以外に被告人が外泊したのに気付いた記憶はないこと、右次郎は少しでも降雪があると、出勤前に除雪する習慣だというのであり、証拠上、本件当日の朝、札幌地方では約九センチメートルの積雪があったことが認められるから、右次郎は、当日朝も習慣にしたがって除雪作業を行ったと思われるところ、乙野方のすぐ横にいつも駐車してある被告人の車がないことに気付いた様子はないこと、そのほか、右次郎は、被告人の購読紙を取り込んで階段の下に置いてやるのが常であったが、前日の夕刊、本件事件当日の朝刊いずれについても階段の下に置かれたままになっていた記憶はないこと(もっとも、新聞について、被告人は、原審当時、「朝刊は読む暇がなくて家を出るときに持って出て勤務先で読み、夕刊については、帰宅した際、被告人専用のポストに入っているのを読んだ。非番の日の朝刊は着替えをしてポストに取りに行く」旨供述していたが(原審第一〇二回公判調書)、当審において、証人乙野次郎が、「被告人が購読していた新聞は、自分の家で購読してしていた新聞と一緒に、建物に設置されている郵便差入口に入れて配達されていたと思う。被告人の新聞が被告人専用のポストに入っていたかどうかわからない。被告人の購読していた新聞は、階段の下のところに置いてやっていたと思う。」旨証言すると(第九回公判調書)、被告人においても、これを受けて、「冬場や雨の日には乙野方の玄関に入るようになり、大家がそれを玄関脇の階段の下の方に置いた」旨供述を変更するに至った(第三二回公判)のであり、右乙野次郎の原審証言時から当審証言までの時間の経過、被告人供述のこのような変遷等を考慮すると、新聞の取り込みの点については、実際にどのようであったか必ずしも明らかであるとは言えない。)、帰宅中はいつも玄関に置かれている被告人の靴が、当日の朝なかったという記憶もないというのである。
しかしながら、右乙野夫婦は、被告人が息子と同年代であることもあって、まじめで、礼儀正しく、好感のもてる青年として、親しみをもって接していたが、被告人の行動には干渉しないようにしており、右花子が被告人に用があって二階に上がるときも部屋の入口の廊下のところで話をし、被告人の居室に足を踏み入れたことは殆どなかったというのであり、被告人の行動を常に子細に注意していたわけではないのであるから、右花子が、被告人の外泊を知って翌朝言葉をかけたことが一度あったというのも、たまたまそのとき被告人の外泊に気付いて言葉をかけたにすぎないとも考えられるのであって、右の事実から被告人が外泊したのはそのとき一度だけであるとも断定はしかねるのである(現に、証人乙野花子の原審証言(第七七回公判調書)によれば、被告人が粗大ごみの中から使える物を拾ってきて使っていると言い、深夜一、二回、何か物を運び込むような物音がしたこともあったが、昭和五一年八月八日の晩、被告人が退去するにあたって、使えるものがあれば使って欲しいと言われて、二階に上がったところ、花子の知らぬ間に、整理ダンス、椅子、テレビ、布団一組、石油コンロ之び戸棚等が運び込まれているのを見て一驚したというのであって、このような事実は、被告人の玄関の出入りについて右花子が常に注意を払っていたわけではないことを物語っている。)。
以上の次第で、前記乙野夫婦の各証言を検討しても、被告人のアリバイの主張を積極的に裏付けるものは何も見いだせず、他にこれを裏付ける証拠は、被告人の供述をおいてほかにない(なお、被告人は、事件当日、市民生協から帰宅すると、花子から声をかけられたなどと言うが、たとえこれが事実としても、被告人が本件事件当日の午前一〇時半すぎに帰宅したことが明らかになるに過ぎず、被告人がいつ外出し、どのくらいの時間不在であったのかは、依然として判然としないのである。)。
ところで、被告人は、捜査段階ではアリバイに関する主張を一切おこなわず、公判段階に入っても、その機会は十分与えられながら、原審一〇二回公判(昭和五六年七月一四日)でようやくこれを主張するに至った(第一〇二回公判調書)。そのため右公判の段階まで、被告人のアリバイを吟味する機会がないままに時日が経過してしまったのであるが、この点につき被告人は、捜査段階でアリバイを述べると、捜査官に反対証拠を捏造されるおそれがあるために、明確な供述をしなかったというのである。しかし、被告人は、原審の公判開始からでも四年余の間、右第一〇二回公判に至るまで、その機会は幾らもありながら、アリバイの主張をまったく行わないまま推移したのであって、原判決も指摘するとおり、被告人のこのような弁解は到底首肯しがたい。
被告人は、本件事件当日の午前一〇時三〇分ころ前記市民生協の売場のテレビで道庁爆破事件の発生を知ったが、「後日、警察官がアパートローラー(間借り人に関する戸口調査)に来るだろうと考え、事件当日の行動については記憶に残す努力をしていた」(原審第一〇二回、第一〇七回各公判調書)と述べながら、本件事件当日の行動については、乙野方を出た時刻や、その後どこの喫茶店に寄ったのか、どこの本屋に立ち寄り、どんな本を見たのか、本を買ったのか買わないのか等については、極めて曖昧な供述に終始している。すなわち、被告人がアリバイに関して本件事件当日の行動について供述する内容を子細にみると、原審においては、「道庁爆破のニュース速報を見た以降のことは記憶にあるが、それ以前のことは、ちょっとはっきりしないところが多い」、「本屋に寄ったと思うが、本を買ったかどうかも分からない」、「喫茶店に寄ったような記憶もあるけれども、それもはっきりしない。行きつけの喫茶店でないところに行ったような記憶もあるが、ひょっとしたら、違う日のことかも分からない」(第一〇二回公判調書)、「本屋に行ったことは確かだが、そのときの具体的な状況がよく思い出せない」、「どこか一軒喫茶店に入った記憶はあるが、確かな確率をもっていうことまではできない」(第一〇三回公判調書)、「本屋は大体一〇時ころ開くので、本屋に行って時間があり、その間、違う喫茶店に入ったかもわからない。本屋に行く前に喫茶店にもう一軒寄っているかは分からない。記憶がない」(第一〇七回公判調書)、「本屋に寄ってから北二四条五丁目の女主人のいる喫茶店へ行った記憶があるけれども、ただ、それが果たしてその日じゃなかったかもしれないというところもあって、高い確度でもって行ったとは言えないということである」(第一〇九回公判調書、なお第一〇八回公判調書においてもほぼ同旨)などというのであり、当審においてようやく「北二四条通に面しているダイヤ書房へ行ったと思う、その後、北二四条に面していて、東西に長い、女主人の居る喫茶店に立ち寄っている」(当審第三九回公判)などと、やや具体的な供述をしてはいるのであるが、この点についても、原判決が言うように、ニュースで知った爆発時刻に近い時間帯の行動についてこそ記憶に残すことが肝要であるのに、その当時記憶するように努めたにしては余りに曖昧にすぎるといわざるをえない。たとえ特に記憶に留どめようと努力しないまでも、被告人にとって関心の深いこのような大事件を知った前後の記憶としては余りに漠然としている。これらの事情は、かえって、被告人は本件爆発物を現場に設置した後、その結果如何を確認しようとして適宜時間を過ごし、出先でテレビのニュース速報を見て、企図したとおり爆発して多数の死傷者を出すとともに建物等にも多大の損害を与えたことを知り、その成果を自室で確認するため午前一〇時半すぎころ乙野方へ戻ったのに、当日は自室におり午前九時三〇分ころ散歩がてら外出したなどと虚構の事実を申し出ているのではないか、また、被告人の申し立てる当日の散歩の地域は、乙野方から程近く、被告人もよく知っている筈の町筋であるのに、どこの喫茶店に入ったか、どの本屋に立ち寄ったかなどについて具体的に述べないのは、逆の裏付けをとられてアリバイの主張が完全に崩れることをおそれたためではないかとの疑念を抱かせるものである(なお、所論中には、爆弾闘争を始めていた被告人にとって、道庁爆破事件は極めて関心のある事件であったから、午前一〇時三〇分ころ前記ニュースを見た後の記憶がはっきりし、それ以前の日常的な事柄についての記憶がはっきりしないことは当然である旨の主張があるが、前叙の理由で到底首肯できない。)。
以上検討したように、被告人にアリバイがある旨の主張及びこれについての関係証拠を検討しても、これまで検討してきた被告人が道庁爆破事件の犯人であることを認定するに十分な積極証拠との関係で、本件事件当日、本件爆発物を現場に運搬して設置するに必要な時間帯に被告人が、被告人の弁解どおり乙野方の居室に在室し、その後外出して本屋、喫茶店などに立ち寄ったことを確信させ、あるいはその可能性を強く推認させるなど、被告人が道庁爆破事件の犯人であるとすることに合理的な疑いを差し挟ませる程度の立証があったとは到底認められない。
そこで、被告人が、バッグ入りの本件爆発物を現場に運び、設置したとすると、そのためには、三月一日に山一パーキングに勤務した被告人が、ⅰ勤務明けに帰宅しないで時間をつぶして現場に向かったか、あるいは、ⅱ勤務明けに帰宅した後、①自動車を乙野宅の横に駐車し、購読紙等を取り入れ、靴を玄間に置くなどして自室へ帰っているように偽装工作を施した後、自動車を置いたままひそかに外出して時間をつぶし現場へ向かったか、②就寝し、早朝、乙野夫婦が起きる前にひそかに外出し、時間をつぶして現場へ向かったか、③乙野夫婦が起きた後、花子が朝食の支度、次郎が出勤の準備等で慌ただしい時間を狙って、気付かれないように外出して現場へ向かったか(乙野夫婦に怪しまれない方法としては、甲野証人の目撃の時間等を考慮すると、この方法をとった可能性が強いと考えられる。)、さらには、④次郎が出勤した後、花子に気付かれないように外出して、急いで現場へ向かったか、以上五通りの場合が考えられるところ、ⅰについては、外泊したことが乙野にわかると、本件事件との関連を後日警察に疑われるおそれがあり、ⅱの①についても、前夜から不在であったことが後に露見すると、偽装工作をしているだけに、本件との関連を疑われるおそれがあること、ⅱの②については、次郎が除雪する前に外出すると、雪の上の足跡で露見し(当日約九センチメートルの積雪があったことは、前叙のとおりである。)、早朝に外出したとして記憶されるおそれがあること、ⅱの④については、右次郎が出勤した後にひそかに外出して現場へ向かったとすると、前叙のように、同人の出勤時間が通常午前八時一五分ころであるため、それからでは時間的に無理があることなどから、これらの方法は取りえなかったのではないかと思われるが、いずれの方法についても、一長一短あって、被告人がどのような方法をとったかは判然としない。原判決は、前記ⅱの①の方法を示唆するが、本件証拠上、必ずしもそのように推定することは困難であるといわなければならない。しかし、原判決は、その判示するところから明らかなように、被告人が、道庁に爆発物を設置した時刻ころ、乙野方自室に居なかったことを、乙野夫婦に気付かれないようにするために、いかなる方法をとったかについて推理し、一つの可能性を指摘したものにすぎないと考えられるから、原判決の事実の認定に、所論指摘の誤認があったとはいえず、所論は容れることができない。
なお、前叙(六の1(一))のとおり、本件事件当日の午後零時四〇分ころ、若い男の声で本件犯行声明文の所在を知らせる通告電話が北海道新聞本社にかかってきたこと、そして、これが本件事件の犯人からの電話であることが明らかであるところ、右午後零時四〇分ころを中心とする時間帯に被告人がどこに居たかは判然としないし、アリバイの主張もなされていない(共犯者の存在を考慮すると、被告人自身が右通告電話をかけたか否かも明らかでない。)。この点、被告人の供述によると、当日午前一〇時半すぎに乙野方へ戻ってから午後四時ころ外出するまで、居室にいたことになると思われるが、その事実を証する客観的証拠の存在しないことは、これまで検討してきた被告人の午前中の行動の場合と同様である。
2 犯行の動機について
所論は、要するに、(1)北海道は、アイヌの母なる大地、アイヌモシリであり、これを我々日本人が開拓の名のもとに侵略し、収奪しているから、厳しく糾弾されなければならないとする考えの基にある「反日思想」は、被告人ら極く少数者の特異な思想ではなく、被告人が来道する以前から、道庁爆破事件と同様、「反日思想」にもとづくと見られる事件が北海道内で多発していたのであるから、本件が「反日思想」の下に敢行されたからといって、これを直ちに被告人に結び付けるのは誤りである、(2)被告人が来道して苫小牧から札幌市内に転居したのは、「反日亡国」の思想をもって非公然武装闘争を志向し、爆弾闘争の準備を進めることを目的としたものではあるけれども、本件事件当時、被告人は攻撃の対象を未だ具体的に特定をしていなかったのであるから、被告人が一般的・抽象的に武装闘争ないし爆弾闘争を志向していたことを理由に、本件道庁爆破事件を敢行する具体的動機があったとすることはできない、(3)被告人は、原審及び当審を通じ、道庁爆破支持を表明してきたが、これは、右爆破が正義の闘いであるが故に支持したものであって、被告人の「反日亡国」の立場は、道庁爆破事件の犯行声明文の文面から窺われるその実行者の立場とは異なる。そして、右犯行声明文は、「東アジア反日武装戦線」の名義で出されているところ、被告人は右戦線のメンバーではないばかりでなく、被告人の「反日亡国」の立場から、「東アジア反日武装戦線」を名乗ることはあり得ないと主張し、被告人に本件事件の犯行の動機があったとする原判決は、事実を誤認しているというのである(弁護人趣意・第一章第三の一、被告人趣意・第一及び最終弁論・第一、同第六)。
そこで検討するに、(1)本件事件は、道庁本庁舎のエレベーターホールが混み合う時間帯を狙って、無差別大量殺人を目的として、時限装置付き爆発物を爆発させ、多数の死傷者をだしたものであり、その目的、手段、結果のいずれにおいても所論指摘の事件などとは明らかに異質の事件であることが認められる。したがって、被告人が北海道に移り住む以前に本件と動機、考え方に共通点のあると窺われる事件があったからといって、本件をそれらと同列に論ずるのは相当ではない。しかも、原判決は、本件がいわゆる「反日思想」に基づいて敢行されたことの一事から直ちに被告人の犯行であると結論したのではなく、その判示するところから明らかなとおり、爆発現場から収集された証拠物、犯行声明文、被告人の遺留、投棄物件、目撃証言、被告人の言動等々を多角的に検討したうえで、右の結論に到達しているのである。したがって、この点に関する所論(1)は容れることができない。
(2) 被告人は、前掲九に認定したとおり、「日本帝国主義のアイヌモシリ侵略を討つ闘い」を志向して、昭和四九年六月に北海道に移り住み、苫小牧市で運転手として勤務する傍ら、訪ねてきた前記加藤三郎とともに札幌市内で前記開拓記念像をペンキで汚損するなどしたが、その後、「東アジア反日武装戦線」の企業爆破事件等に強く刺激されて、過激な闘争を志し、道庁をはじめアイヌモシリ占領の中枢機関が集中する札幌で爆弾闘争をすすめるため、昭和五〇年六月末、札幌市内に転居し、爆発物製造のための材料等を調達し、旅行用時計の目覚まし機構を利用して時限装置を作成するなど、具体的に着々爆弾闘争の準備をおこなっていたのであり、昭和五一年一月中旬の前記加藤の来訪の際には、同人に道庁ないしその幹部職員に対する激しい憎悪を露にして同人を憂慮させたのであって、その当時、道庁に狙いを付けていわゆる爆弾攻撃をもくろんでいたことは、証拠上明らかであるというべきである。このようにみてくると、具体的な目標も決めないまま、爆弾闘争のために、ただ漫然と爆発物の準備をしていたとする所論主張は、到底容れることができない。したがって、この点に関する原判決の認定に誤りは認め難く、所論(2)もまた失当である。
(3) 次に、所論は、本件犯行声明文には、いわゆる「反日亡国」の思想(日本は、建国当初から、原住民を征服支配してきた国家であるから、その建国にさかのぼって国家を滅亡させるべきであるという考え方)の視点が欠落しているから、本件当時、既に「反日亡国」の考えを持っていた被告人が本件に加担した筈はないと主張する。
しかしながら、本件犯行声明文は、その内容から明らかなとおり、日帝本国人はアイヌ等の被支配民族の反日闘争に呼応して、彼らに対する日帝の支配を打ち砕かねばならないこと、道庁を中心に群がるアイヌモシリの占領者は第一級の侵略者であること等々を謳い、もって、「東アジア反日武装戦線」の名において、道庁に爆発物を仕掛けた所以を簡潔に宣明しているのであって、このような犯行声明文の性格上、所論のいわゆる「反日亡国」の考えが文面上明確に表明されていないからといって、必ずしも本件の犯人がそのような考えを持っていなかったと断言することはできず、この点は、証拠上いずれとも判然としないと言うべきである。
そして、被告人が、いわゆる「反日亡国」の考えを本件当時抱いていたか否かはさておき、先に前掲九で検討した被告人のこれまでの言動に徴し、当時、被告人は、日本国家のアイヌモシリ侵略とアイヌからの収奪を糾弾し、その収奪の中枢機関に爆弾攻撃を加えることを第一義に考えていたと認められるのであって、このような考えは、本件犯行声明文から窺われる本件犯人の考えと通じるものがあると認められる。所論は、種々理由をあげて被告人が「東アジア反日武装戦線」の名を用いて爆破事件を起こす筈がないと主張するが、前掲九の1、2に認定したところに照らすと(とくに、前掲九の2に摘記した原審及び当審における被告人の発言)、被告人が「東アジア反日武装戦線」の過激な爆弾闘争に共鳴し、これを継承しようとの考えから、その名において本件爆破事件をおこなったことは十分考えられる。(なお、被告人が、いわゆる「反日亡国」の立場から、本件犯行声明文に現れた考え方の不徹底さを批判して、自分の考え方との違いを強調し、自分が本件の犯人ではないことの積極的な証拠として主張するようになったのは、起訴後約一年を経過した原審第一三回公判以降のことであるが、本件の未決勾留中に交わされた実方藤男との往復書簡写(記録六九〇七丁以下、七一二六丁以下)に徴すると、被告人は、右実方の書簡を通じて「反日亡国」思想について学び、「東アジア反日武装戦線」の考えの不徹底さ等について教示を受け、次第にこれを取り入れていった事情が窺われる。)
したがって、この点に関する原判決の認定に誤りは認められず、所論(3)も容れることができない。
3 爆発物製造に必要な知識について
所論は、被告人が「腹腹時計」(技術篇)及び「薔薇の詩」を入手したのは、昭和五一年一月ころであって、本件事件のころには、未だ爆発製造の知識や技能に乏しく、また材料、工具等も十分入手していなかったのに、原判決が、被告人は「腹腹時計」(技術篇)が発行された昭和四九年三月一日の直後ころには「腹腹時計」(技術篇)、「薔薇の詩」を入手しており、苫小牧から札幌へ転居した昭和五〇年六月下旬ころには、これら爆弾教本を十分学習して、爆発物の製造に必要な知識と技能を持っていた旨認定したのは誤りであるというのである(弁護人趣意・第一章第三の二、同第一の二、被告人趣意・第二の一)。
そこで、検討するに、関係証拠によると、被告人が逮捕の直前まで所持していたと認められる投棄物件の中には、爆発物の製造に関する知識習得のための本の切取り(爆弾教本「栄養分析表」)、爆発物取扱関係者用の受験参考書、被告人手書きのメモなど多数(原審検六五〇ないし六五七、符号一九六ないし二〇三)があり、学習のあとが窺われるが、そのほかにも、被告人は、爆弾製造の教本「腹腹時計」(技術篇)並びに「薔薇の詩」を入手していたことを自認し、その入手時期、方法については、昭和五一年一月、札幌を来訪した前記加藤三郎からであると供述する。しかしながら、「東アジア反日武装戦線」の爆弾闘争に刺激を受け、自らも爆弾闘争を志向した被告人が、これら爆発物製造の教本類の入手に努めることは当然であり、実際の入手の時期は、被告人の供述するよりはるかに早い時期ではなかったかと疑われる。すなわち、被告人の当審の供述によれば、被告人は、昭和四九年一一月、「腹腹時計」(技術篇)入手のため、東京、名古屋、大阪等の左翼系の書籍を取扱う書店を探し回ったというのであり、その途中、岐阜県美濃加茂市に居住する右加藤及び太田早苗を訪ねたというのであるから、そのころ入手したのではないかとも思われるし(他方、前記加藤は、昭和四九年秋ころ「腹腹時計」(技術篇)と「薔薇の詩」のコピーを実方から貰い受けたが、被告人に渡すと武装闘争を具体的に準備するのではないかと心配して、そのときすぐには渡さなかったと証言するが、被告人に渡したかについては口を濁し、昭和五一年一月中ころ、札幌に被告人を訪ねたとき「ひょっとしたら持参して行ってるかもしれないです。」、「入手したときは送ってないですけど、あと、それから……、ちょっと覚えないですけど。」などと証言し(当審第七回公判調書)、同第二七回公判においても、渡したことは「記憶にはないです。」と証言している。)、あるいは、当審で明らかとなった被告人と実方との交友関係に徴すると、実方から直接入手したことも考えられ(右実方の当審証言によれば、同人は昭和四九年三月ころ「腹腹時計」(技術篇)を入手し、そのコピーを二〇部程作成して、関心のある者のうち信頼のおける者に配ったという。第五回公判調書)、またあるいは、昭和五〇年六月に右加藤、太田早苗、実方らと東京で会合した折に入手したことも考えられるけれども、結局、この入手の時期は、証拠上明確ではない。
しかしなながら、前記加藤の当審証言(第二七回公判)等によれば、同人は、「腹腹時計」(技術篇)をもとに、消火器等を爆体容器とした除草剤などを用いた混合爆薬入りの時限装置付き爆発物七個を製造し、そのうち六個を計画どおり爆発させているところ、その製造には、夜間等の余暇を利用して一週間ないし一〇日間に一個の割で爆発物を完成させていたというのである。右証言などから判断すると、本件時限装置付き爆発物の製造には、さほど高度な知識、技能を必要とするわけではなく、材料、道具類が揃えば、比較的短期間に作成することができるものと認められる。したがって、被告人が「腹腹時計」(技術篇)、「薔薇の詩」を、被告人の供述どおり、昭和五一年一月の右加藤来訪の折に同人から入手したものとしても、それまでに習得した爆発物に関する知識、技能に合わせて、これら爆弾製造の教本を学習することにより、本件時限装置付き爆発物を製造し、本件当日、道庁舎一階エレベーターホールに設置して予定時刻に爆発させることは、十分に可能であったと認められる。
以上の次第で、被告人の「腹腹時計」(技術篇)及び「薔薇の詩」の入手時期については、証拠上、原判示のように言い切ることができるか、必ずしも明らかでないと思われるが、前叙のとおり、「腹腹時計」(技術篇)、「薔薇の詩」の入手時期が、たとえ原判示よりも遅く、被告人の言うとおり昭和五一年一月中旬ころであったとしても、被告人が本件爆発物を製造し、本件発生の日に本件現場にこれを設置するについて時間的になんら支障はないというべきである。したがって、所論指摘の点が判決に影響を及ぼすものではないことは、明らかである。
4 爆発物の材料、工具等について
(一) 除草剤について
所論は、被告人は本件事件の前後を通じて、除草剤を入手、所持したことはないのに、原判決が道警本部刑事部犯罪科学研究技術吏員山平真及び同本実共同作成の鑑定書(原審検七〇〇、以下、同人らの証言も併せて、「山平鑑定」ということがある。)等を根拠に、被告人が除草剤を入手、所持し、これを用いて本件爆発物を製造したうえ、本件現場に設置して爆発させた旨認定したのは、事実を誤認したものであるというのである(弁護人趣意・第一章第三の三、同第一の二、被告人趣意・第二の二、最終弁論第二)。
そこで、所論にかんがみ、検討を加える。
(1) 山平鑑定の信用性について
所論は、右鑑定書は爆捜本部が爆発物取締罰則違反の被疑事家で被告人の逮捕状を請求する際の資料とするため、倉卒の間に嘱託して作成されたものであるのみならず、嘱託の内容が「塩素酸イオンあるいは塩素酸塩類付着の有無」を調べてほしいということであったので、右山平においても、当初から塩素酸イオンの有無のみを念頭に置き、これに対応する陽イオンが何であるかについてはそれほど関心を抱かなかったのであって、このことは、右鑑定書中の「鑑定経過」の項に、花柄ビニールシート及び花柄カーテンから塩素イオン及びナトリウムが検出された旨の記載はあるものの、カリウムが検出されなかった旨の記載はなく、また、「鑑定結果」の項には、ナトリウムが検出された旨の記載すらないことに徴しても明らかであるし、軍手については塩素酸イオンに対応するイオンを確定するために、エックス線回折の方法によって検討し、カリウムイオンの存在を確認しながら、花柄ビニールシート及び花柄カーテンについてはエックス線回折の方法による検討を経ていないから、山平鑑定の結果から右花柄ビニールシート等に塩素酸ナトリウムが付着していたとの結論を出すことはできない、というのである。
そこで検討するに、右山平らが、爆捜本部から依頼を受けて各鑑定資料について鑑定した経過等については、前叙五の2のとおりであるが、爆捜本部の鑑定依頼の内容が「塩素酸塩類など付着反応の有無、付着しているとすればその種類」というものであったことから、右山平は、主として塩素酸イオンが検出されるかどうかの検査に重点をおき、これについて陽性の結果がでた後も、対応する陽イオンが何であるかについては、即断を避け、慎重な態度で鑑定に当たったことが窺われる。
すなわち、同人は、塩素酸イオンに対応するイオンが、ナトリウムイオンであるか、あるいはカリウムイオンであるかを確定するためには、エックス線回折の方法によらなければ最終的な結論を出すことはできないと考え、前記花柄ビニールシート(鑑定資料二二)及び花柄カーテン(同三三)の付着物について、炎色反応検査の方法によつて、ナトリウムイオンは検出されたが、カリウムイオンは検出されなかったことを確認しながら、試料の残量が僅少であったため、エックス線回折を断念し、結局、鑑定書(原審検七〇〇)を作成した際には、「鑑定結果」の項に、軍手から塩素酸ナトリウム、硫黄及び木炭末等が検出されたとする一方、花柄ビニールシート及び花柄カーテンからは塩素酸イオン、硫黄及び木炭末が検出されたことだけを明記し、さらに原審及び当審における各証言に際しても、右の検査結果からは、花柄ビニールシート等に付着していた物質は、「強いて推定すれば塩素酸ナトリウムの存在が推定されますけれども」(原審第五四回公判調書)、「塩素酸ナトリウムの推定は可能ですね。」、「塩素酸塩につきましては、塩素酸ナトリウムと塩素酸カリウムしかないことはわかっているんですけれどもナトリウムの相手はいろいろあるわけですね。ですから、まあ、X線回折をすればはっきり言えるんだけれども、これでも推定はできるんですけれども、私はそういう推定の結論というのはあまり書かない主義なんで、出たものだけ……」と述べ(当審第八回公判調書)、断定を避けているが、いずれにせよ、右山平が、前掲五の2(2)に述べた方法により検査したところ、花柄ビニールシート及び花柄カーテンの付着物の可溶部分の試料について、ⅰ硝酸銀試液法によれば塩素イオンの反応が疑陽性であったこと、ⅱ硝酸銀試液及び亜硝酸ナトリウムを用いる検査によれば塩素酸イオンの反応が陽性であったこと、そして、炎色反応検査によれば、ⅲナトリウムイオン特有の黄色炎の反応を確認することができたが、ⅳカリウムイオン特有の赤紫色の炎は視認できず、炎色反応検査の結果はマイナスであったことは、証人山平の原審及び当審における各証言(原審第五四回公判調書、当審第八回、第二三回各公判調書)、また、右証言から窺知される同人の爆薬、火薬等の分折、検査、鑑定についての豊富な経験、慎重な鑑定態度等に徴し、十分信用に価するものと認められる。
これに対して、当審証人松田禎行は、右の各検査方法が、①酸性条件下で行われたか不明であること、②特に前記ⅳの結果について、エックス線回折の方法によっていないのであるから、カリウムイオンの有無について確定的な判定はできないこと、③試料中の塩素イオンの反応が疑陽性であったことからすると、塩素酸ナトリウム以外の塩素酸塩類が付着していた可能性もあるから、右の検査結果から試料中に塩素酸ナトリウムが含まれていたとすることには疑問があることなどの諸点を挙げて、山平鑑定の結果を疑問とする(なお、松田第一鑑定、当審弁一三〇、当審職権一三参照)。しかし、山平鑑定の各検査が酸性条件下で行われたことは、証人山平も明言しているところであって、この点の批判は当たらないし、カリウムイオンの有無を確認するために、エックス線回折をおこなうことは望ましいことであるけれども、同人は、各資料にどのような物質が付着しているか全く未知のまま、多くの検査を行わなければならなかったため、個々の検査に用いる試料の量が限定され、ことに、花柄ビニールシート及び花柄カーテンの付着物から採取した資料は僅少で、結局、エックス線回折にかけることができなかったことは、当時の状況の下でやむを得なかったというほかない。当審採用の関係各証拠(当審検四九、五五、五六、二五〇、二五一、二五二及び証人綿抜邦彦の当審証言、第一九回公判調書等)によれば、硝酸銀試液法によって沈澱を視認する方法及び炎色反応を視認する方法は、日本工業規格(JIS規格)でも承認され、定性分折の手法としては、最も簡便かつ確実なものとして、従前から広く採用されているのであるから、右の方法により検査したうえに、なおエックス線回折を重ねておこなわなかったからといって、そのことから直ちに山平鑑定の信用性に疑問を差し挟むのは相当でない。また塩素イオンが疑陽性とされたのも、クロレートソーダなどの高濃度塩素酸塩系除草剤には塩素イオンが含まれてはいるが、その量は極めて微量であるから、硝酸銀試液法で検出されることはまずないが、塩化ナトリウムは、食塩、汗などの形で生活空間のどこにでも存在するから、鑑定資料自体に、徴量の塩化ナトリウムが付着あるいは混入していたものと考えられ(当審証人綿抜の証言、第一九回公判調書)、試料の塩素イオンが疑陽性の場合であっても、検査結果から試料中に塩素酸ナトリウムが含まれていると結論して何ら矛盾するものではなく、右の点は山平鑑定の分折結果を否定する事由とはなり得ないのである。
所論は、山平鑑定において実施されたとされる炎色反応検査は、塩素酸イオンの相手方陽イオンを確定するためのものであるにもかかわらず、鑑定書中にはこれを実施した旨の記載がないので、真実、炎色反応検査が実施されたかどうかについて疑問があるのみならず、仮に炎色反応検査をしたとしても、山平自身が該検査に必ずしも信を措かず、また、カリウムイオンの有無を判定するに際して、ブランクテストすら行っていないのであるから、ナトリウムイオンは検出されたが、カリウムイオンは検出されなかった旨の検査結果は措信することができない、というのである。
しかしながら、花柄ビニールシート及び花柄カーテンの付着物の可溶部分の試料について、ナトリウムイオン及びカリウムイオンの有無を確認するため、炎色反応検査を実施したことは、前叙したところから疑いを容れる余地はなく、証人山平の原審及び当審証言によれば、当初、試料中の約一ミリリットルを使って炎色反応による検査を行い、次いで漸次濃縮し、最終的には一〇倍くらいにまで濃縮して、それぞれの段階で繰り返し炎色反応検査を実施したが、いずれもカリウムイオンの反応はみられなかったというのであるから、検査方法自体に疑問を差しはさむ余地はないのみならず、同人は、とにかく塩素酸イオンの検出が確認されれば当面の目的を達すると考えていたというのであるから、これに対応する陽イオンがナトリウムイオンであろうとカリウムイオンであろうと、いずれとも拘泥しない態度であったことが窺われ、このような同人の態度は、かえって炎色反応を調べるに際し、予断を排除することになったと考えられる。
また、所論は、山平がブランクテストを行わなかったことを論難するが、炎色反応によってカリウムイオンの存否を確認する場合に、慎重を期する意味から予めブランクテストを実施することが望ましいけれども、ブランクテストを経なかったからといって、正確性のうえで炎色反応検査の結論を左右するほどの事由となるとは認め難い。
次に所論は、花柄ビニールシート等に付着していた白色粉末様の物質の量が数ミリグラムであったというのは、あくまで目分量にすぎないし、加えて、塩素酸ナトリウムには潮解性があるから、もし花柄ビニールシート等に付着した白色粉末様のものが、塩素酸ナトリウムであるとすると、道庁爆破事件の発生から爆捜本部がこれら花柄ビニールシート等を領置するまで約五か月間以上も空気にさらされていた間に、潮解してそのままの状態を保つことができなくなっているはずであり、したがって、前記山平が採取した花柄ビニールシート等に付着していた白色粉末様のものは塩素酸ナトリウムであるはずがない、というのである。
検討するに、証人山平の原審及び当審における各証言(原審第五四回公判調書、当審第八回、第二三回各公判調書)によれば、花柄ビニールシート及び花柄カーテンに付着していた白色粉末様のものの量については、計量を経ているわけではなく、単なる目分量にすぎないから、その量は正確であるとはいい難いのみならず、試料中には、水に濡らした脱脂綿で花柄ビニールシート等を拭った際に、右白色粉末様の物質のほかに、その余の物質も一緒に拭われて混入したこともあり得るから、塩素酸イオンが直ちに白色粉末様の物質にのみ由来すると断定することはできないこと、さらに、塩素酸ナトリウムには吸湿性があるから、道庁爆破事件から被告人の逮捕に至るまでの約五か月間以上も白色粉末あるいは半透明の状態を保っていることが可能であるのか必ずしも明らかでないこと等に照らすと、塩素酸イオンが前記の白色粉末様の物質にのみ由来すると断定することには疑問がある。また、右各鑑定資料が、前述のとおりダンボール箱に一括して入れられて投棄されていたこと、鑑定資料の大部分に木炭が付着していたこと等に照らすと、他の資料の付着物が、これら資料が投棄され、警察官によって収集される間に、前記花柄ビニールシート、花柄カーテンにも付着した可能性が全くないわけではない(しかし、塩素酸イオンで検出されたのは、右花柄ビニールシート、花柄カーテンと軍手からだけであるので、同イオンがこれら三点以外の資料の付着物に由来することは考え難い。)。
したがって、塩素酸イオンが花柄ビニールシート、花柄カーテンに付着していた白色粉末様のものに由来し、この白色粉末様の物質が即、塩素酸ナトリウムと推定できるとする原判決の認定は、そのまま維持することはできないが、前述したように、本件において、被告人が除草剤を所持していたか否かの究明には、右の白色粉末様の物質そのものが塩素酸ナトリウムであったかどうかが確認できなくとも、要するに、被告人が所持ないし管理していた物件(右花柄ビニールシート、花柄カーテンを含む。)の付着物から塩素酸ナトリウムが検出されたことが認められれば、その余の証拠と相俟って、結局、被告人が塩素酸ナトリウム(本件の場合、これが高濃度塩素酸塩系除草剤であると認められることは、前掲五の2に述べたとおりである。)を所持していたことが証明されたということができる。したがって、畢竟、前記の原認定の誤りは、判決に影響を及ぼさないことが明らかである。
所論は、各鑑定資料について、指紋検出の作業が重なったこともあり、わずか一日しか山平らの手許に留め置かれなかったのであるから、時間不足と検討不足のために、真実、花柄ビニールシート及び花柄カーテンから塩素酸イオンが検出されたかについて疑問が残るというのである。
しかしながら、前記鑑定書、証人山平の原審及び当審における各証言(原審第五四回公判調書、当審第八回、第二三回各公判調書)、証人本実の原審証言(第五五回公判調書)等によれば、右山平らは、昭和五一年八月八日に鑑定作業に着手し、その翌日も引き続き鑑定作業に従事したことが認められるばかりでなく、前記のとおり、山平鑑定の用いた検査方法は、定性分折の手法としてはいずれも、簡明かつ確実なものであること、山平は爆薬、火薬の分折、検査等に関し豊富な経験を持ち、慎重に鑑定に当たったと認められることなどの事情に徴し、所論の理由のないことは明らかである。
また、所論は、山平から、塩素酸イオンが検出された旨の連絡を受けた警察官高山智二が、網篭からも塩素酸イオンを検出された旨の捜査報告書(当審弁一九)を作成しているのであるから、山平が、報告する時点で誤った結論を出していた可能性もあり、その検査能力に疑問があるのみならず、検査結果を記載した電話通信用紙(当審検一七三)の作成時期についても作為の疑いが濃い、というのであるが、しかし、網篭からも塩素酸イオンが検出された旨の同警察官が作成した捜査報告書の記載が、同警察官の誤解に基づくものであることは、右山平が翌日上司に報告するために前記電話通信用紙に検査結果を記載した旨の同人の当審証言(第二三回公判調書)によっても明らかであるのみならず、右電話通信用紙は、当審において、証人山平を尋問した際にその所在が明らかとなり、証拠として採用されたもので、その作成の経緯、内容及び証拠提出の経緯等に照らしても、作成時期や内容を偽ったと疑う余地がないことは明らかであるから、所論は採用の限りではない。
所論は、除草剤中には微量のカリウムが含有されているところ、除草剤の場合、その水溶液中に含まれる塩素酸イオンが硝酸銀試液法により検出される程度の濃度であれば、炎色反応検査によって、必ずカリウムも検出されるはずであるから、炎色反応検査でカリウムが全く検出されなかったとする山平鑑定の試料は、除草剤ではあり得ない、というのである。
なるほど、右所論に沿う鑑定結果として竹之内一昭作成の鑑定結果報告書(当審弁三三、なお、当審証人竹之内一昭の証言、第一〇回公判調書)が存するけれども、関係証拠によれば、除草剤中のカリウムの含有率は極めて微量であり、日本カーリット株式会社製のデゾレート(除草剤の商品名)の場合で、約0.001から0.01パーセントくらい、昭和電工株式会社製のクロレートソーダ(除草剤の商品名)の場合には0.032パーセントくらい(なお梅澤第二鑑定(当審職権一〇)は当初クロレートソーダ中のカリウム含有率を0.2パーセントとしていたが、梅澤第三鑑定(当審職権一二)及び同人の当審証言(第二四回公判調書)によって0.018パーセントであると訂正された。)にすぎない。そして、山平鑑定の鑑定資料二二、三三(花柄ビニールシート、花柄カーテン)に付着していたものが多めに見積もって四ミリグラムの除草剤と仮定し、山平がおこなったとおりの方法で、この全量を二〇〇ミリリットルの純水に溶解して、更に一ミリリットルまで濃縮した場合(計算上、右水溶液の濃度は、四〇〇〇ppmとなる。)、この除草剤が比較的カリウムの含有率の高い前記クロレートソーダであったとしても、カリウムの含有率は前示のとおり0.032パーセントであるから、右水溶液に含まれるカリウム濃度は、計算上、4000ppm×0.00032→1.28ppmにすぎず、炎色反応の方法によるカリウムの検出限界(証人綿抜の当審証言によれば、検出限界は五〇ppmであるという。第一九回公判調書)をはるかに下回り、カリウムが検出されることは到底あり得ないものと認められる(この結論は、松田第一鑑定等によっても裏付けられている。)。したがって、右の所論に沿う右竹之内の鑑定結果は明らかに誤っており、所論は採用の限りではない。
次に所論は、塩素酸塩系の漂白剤中に次亜塩素酸ナトリウムが含有されているところ、右は塩化ナトリウムと塩素酸ナトリウムとに分解する性質があるから、漂白剤が花柄ビニールシート及び花柄カーテン等に付着している間に、何等かの事情で化学変化を起こし、花柄ビニールシート等から塩素酸ナトリウムが検出されるに至った可能性も否定できない、というのである。
検討するに、道警本部刑事部犯罪科学研究所技術吏員岡元賢二作成の鑑定書(原審検一一六四)及び梅澤第一鑑定(当審職権二)及び同鑑定に関する捜査照会・同回答(当審検一五一・一五二)によれば、塩素酸塩系の漂白剤(例えば、ライオン株式会社製の商品名「ブライト」、花王石鹸株式会社製の「ハイター」等)の乾燥残渣物から塩素酸イオンの検出がみられるというのである。しかし、右梅澤第一鑑定は、前記山平鑑定の方法(硝酸銀試液法)よりも鋭敏な有機発色試薬及び吸光光度計を用いる分折方法を採用した結果によるものであるから、右結論をそのまま採用することはできないのみならず、証人岡元の原審証言(第八九回公判調書)によれば、漂白剤中から、山平鑑定の手法によって塩素酸イオンを検出するのは、漂白剤を原液のまま使用したような場合に限られるところ、原判決も指摘するように、漂白剤を原液のまま直接使用することはあり得ないし、また、仮に漂白剤を原液のまま使用した場合には、使用部分の生地に褪色が生ずるか、生地の劣化を来すが、前記花柄ビニールシート及び花柄カーテンにはそのような痕跡は認められない。したがって、右山平が検出した塩素酸イオンが漂白剤に由来することはあり得ないということができる。よって、所論は採用することができない。
(2) 塩素酸カリウム付着の可能性について
所論は、右の花柄ビニールシート等とともに鑑定嘱託された軍手等から、塩素酸イオンと共にカリウムが検出されたことに鑑みると、山平鑑定で検出された塩素酸イオンは、被告人が所持していたマッチの頭薬あるいは花火等に含まれる塩素酸イオンに由来する可能性がある、というのである。
しかしながら、原判決が判示するように、塩素酸ナトリウムは吸湿性があるため、マッチの頭薬や花火の火薬等には適さず、これらの原料として塩素酸ナトリウムは使用されないことが、関係証拠に照らし明らかであり(原審証人佐藤正光の証言、第一一四回公判調書、など)、検出された塩素酸イオンが、仮に塩素酸カリウムが主成分であるマッチの頭薬に由来したとすると、小野第二鑑定からも明らかなとおり、マッチの頭薬からは塩素酸イオンが相当高濃度に検出されない限り、ナトリウムイオンが検出されることはあり得ないのみならず、もし、ナトリウムイオンが検出される場合には、必ずカリウムイオンも検出されることになるから、山平鑑定の塩素酸イオンが疑陽性であり、ナトリウムイオンは検出されたがカリウムイオンは検出されなかったという検査結果と反することにならざるを得ない。したがって、マッチの頭薬のみでは、所論指摘の可能性は否定されることが明らかである。
次に所論は、右山平鑑定の検査結果が正しいとしても、試料が微量の塩素酸カリウムと微量の塩化ナトリウム(食塩)との混和物であった場合にも同様の検査結果が得られるのであるから、右山平鑑定で検出された塩素酸イオンが、塩素酸ナトリウムに由来するとは、必ずしも言えないというのである。
前述したとおり、山平鑑定の鑑定資料とされた被告人の投棄物件は、被告人がこれらを投棄するときに、ダンボール箱に一括して入れられていたこと、被告人が、爆薬の材料とする目的でマッチの頭薬を削り取ってまとめて所持していたと述べていること、山平鑑定で軍手から塩素酸カリウムが検出されていること等に照らすと、爆発物製造の作業過程で、あるいは、投棄する物件をダンボール箱にまとめて入れる際に、削り取ったマッチの頭薬が、鑑定資料の花柄ビニールシートと花柄カーテンに付着したことも考えられないではなく、そのため山平鑑定の右検査結果が、マッチの頭薬の粉末と極めて微量の食塩等の塩化ナトリウムとの混和物に由来する可能性も全く考えられなくはない。そこで、この点について検討を加える。
前記山平鑑定において検出された塩素酸イオンが、所論主張の混和物に由来する可能性に関して、次の証拠が存在する。
ⅰ 当審証人綿抜邦彦の証言(第一九回公判調書)
同証人は、東京大学教養学部教授で、分折化学と地球化学を専門にしている。
同証人は、山平鑑定で得られた検査結果について、亜硝酸イオン及び硝酸イオンがないことが確認されれば、試料中に塩素酸ナトリウムが含まれていると判定してよいという。(山平鑑定においては亜硝酸イオン及び硝酸イオンが不存在であることが確認しているから、塩素酸ナトリウムの存在が承認されることになる。)
そして、山平鑑定において、硝酸銀試液法によって沈澱が確認されたということは、試料中にかなり多量の塩素酸イオンが存在したことを示すものであり、塩化物イオンが疑陽性であったのは、大気中にいくらでも存在する塩化ナトリウムが混入したものとみられるから、別に不審はないという。
そこで、塩化ナトリウムと塩素酸カリウムの混和物であった可能性については、もし塩化ナトリウムが微量であるならば、ナトリウムイオンの炎色反応も極めて微弱なものとなったはずである。また仮に鑑定資料が塩素酸カリウムだとすると、山平鑑定の定性分折の過程で見られたように、硝酸銀試液法により塩素酸イオンが沈澱する程度に存在すれば、それと結び付いているカリウムイオンも少なくはないはずで、炎色反応検査で検出されないということはあり得ない。したがって、炎色反応検査でナトリウムイオンが検出され、カリウムイオンが検出されなかったという右山平鑑定の検査結果からすれば、試料は塩素酸ナトリウムを含有していたと判定してよいというのである。
ⅱ 原審証人本実の証言(第五五回公判調書)
同証人は、道警本部刑事部犯罪科学研究所長であるが、山平鑑定実施の当時は同研究所の技術吏員であり、前記山平とともに鑑定に従事し、鑑定書(原審検七〇〇)を共同作成したもので、とくに鑑定資料中の軍手について自ら各種検査を実施したものである。
同証人は、山平鑑定の検査結果からすれば、塩素酸ナトリウムの存在が推定されるという。その理由として、塩素酸イオン及びナトリウムイオンの検査結果がいずれも陽性であり、塩素イオンの検査結果が疑陽性であったことからして、塩素イオンの相手方である陽イオンはナトリウムイオンであると認められるところ、塩素イオンの検査結果が疑陽性であることは、すなわちその量も極めて微量であることを意味するから、この相手方であるナトリウムイオンもまた僅かであることとなり、余剰のナトリウムイオンは、結局、塩素酸イオンと結び付いたものと考えられ、結論として、塩素酸ナトリウムの存在が推定されるというのである。
ⅲ 当審証人石川欽也の証言(第一八回公判調書)
同証人は、日本カーリット株式会社群馬工場管理部管理課長の職にあり、昭和三五年から三七年までの間、塩素酸ナトリウムの開発製造に従事し、その後昭和四〇年四月まで亜塩素酸ナトリウムの応用研究に従事していたものであり、札幌弁護士会を通じて本件弁護人の依頼により、工業用塩素酸ナトリウムの試薬につき、カリウム濃度についての実験を担当したものであるところ、同証人の日常業務の経験からすると、山平鑑定の実験結果から塩素酸ナトリウムの存在が考えられるというのである。
すなわち、微量の塩素酸カリウムと微量の塩化ナトリウムとの混和物を山平鑑定の手法で検査したとすると、炎色反応検査によれば、ナトリウムイオンの炎色反応のほかに、必ずカリウムイオンの炎色反応が視認され、硝酸銀試液法によれば塩素酸イオンのほかに塩素イオンの存在も確認されるはずであると言う。
そして、(山平鑑定では、炎色反応検査でカリウムイオンが検出されなかったというのであるから、)右の混和物の比率を、塩化ナトリウムを多く、塩素酸カリウムを少なく設定すれば、塩素イオンのほかに、ナトリウムイオンが多く検出されるので、炎色反応を見る際、ナトリウムイオンの強い炎色反応の影響によりカリウムイオンの炎色反応の出かたが弱くなることも考えられるが、その場合にはカリウムイオンと結び付いている塩素酸イオンの反応も弱いはずで、硝酸銀試液法によっては塩素酸イオンが検出(沈澱)されないはずである、というのである。
ⅳ 山平鑑定
その鑑定嘱託を請けた経緯、鑑定の経過及び結果については、先に詳述した(前掲五の2)。
その言うところは、要するに、硝酸銀試液法によれば塩素酸イオンが検出され、また炎色反応検査によればナトリウムイオンの検出があり、カリウムイオンは検出されなかったとの結果を得たが、結論として、試料中に塩素酸イオンが含有されていたこと、それが塩素酸ナトリウムか、または塩素酸カリウムに由来することは確実であるが、エックス線回折による検査を経ることができなかったので、それがいずれに由来するものであるかは断定できないが、強いて推定すれば塩素酸ナトリウムに由来するということができるというのである。
他方、右山平は、当審で証言の際に意見を求められて、微量の塩素酸カリウムと微量の塩化ナトリウムとの混和物に由来するという可能性も、「全く考えられないということはありませんね」と述べている(当審第八回公判調書)。
ⅴ 梅澤第二鑑定及び同第三鑑定
鑑定人梅澤喜夫は、北大理学部教授で分折化学を専門とするものである。
同人の当審証言(第二四回公判調書)をも加えて検討すると、当審の鑑定人として、除草剤であるクロレートソーダ(当審職権五、符号三五一の二)の定量分折をしたところ、クロレートソーダ中には塩素酸ナトリウムが98.82パーセント含まれており、塩素酸イオンが77.48パーセント、ナトリウムイオンが20.88パーセント、カリウムイオンが0.018パーセント(第二鑑定で0.2パーセントとしていたものを、第三鑑定及び当審証言で訂正した。)、塩化物イオン0.003パーセントであるとの結果が得られた。そして、山平鑑定の手法と同様の方法によって、右クロレートソーダの定性分折をしたところ、塩素酸イオンについては試料濃度一〇ppmのときに一プラス(検出するがやや不鮮明という程度)、ナトリウムイオンについては試料濃度が一〇ppmのときには二プラス(明らかに検出する)、一ppmのときに一プラスであり、それ以下はいずれもマイナス(検出しない)であり、塩素イオンについては試料濃度のいかんにかかわらず、いずれもマイナスであったこと、カリウムイオンについては試料濃度一万ppmで二プラス、一〇〇〇ppmのときは一プラス(一〇回実験を繰り返してようやく見える程度。なお、第二鑑定においてはいずれの濃度でも検出されないとしていたが、第三鑑定において訂正した。)であるとの結果が出た。(この結論自体は、山平鑑定と矛盾するものではない。)
しかし、梅澤鑑定人は、山平鑑定の検査結果によれば、花柄ビニールシート等の付着物に塩素酸ナトリウムが含まれていた可能性が肯定できるが、外にもいろいろの場合が考えられると言い、その一場合として、微量の塩化ナトリウムと微量の塩素酸カリウムが含まれていたとしても矛盾はないという。
ⅵ 松田第一鑑定
鑑定人松田禎行は、北海道教育大学旭川分校で助教授の職にあり、分折化学の講座を担当するものである。
同人の当審証言(第三一回公判)等をも加えて検討すると、鑑定人としてクロレートソーダ(当審職権五、符号三五一の二)の定量分折をしたところ、塩素酸イオンが77.5パーセント、ナトリウムイオンが22.2パーセント、カリウムイオンが0.029パーセント、塩素イオンが0.014パーセントとの結果を得た。(これは、前記梅澤鑑定とほぼ同様の結果であり、いずれもクロレートソーダ及びデゾレートを製造した各会社の検査結果とほぼ一致している。)
次に、山平鑑定の検査方法と同じ手法で定性分折をおこなったところ、各濃度段階におけるイオンの検出結果は、後掲【第一表】のとおりであったというのである(松田第一鑑定一九頁)。
すなわち、塩素酸イオンについては、試料濃度が一〇ppmのときに一プラス(検出可能だが、やや不鮮明で注意力を要する程度)、五ppmのときにプラスマイナス(検出限界ぎりぎりでどちらともいえない程度)であり、ナトリウムイオンについても同様の結果となった。(これは、梅澤鑑定と比較すると、ナトリウムイオンとカリウムイオンの検出限界に若干の齟齬があるが、その余については概ね一致していることが認められる。)
そして、同鑑定人は、山平鑑定の手法による検査結果から、その物質中に塩素酸塩類が含まれていた可能性は強いということができるが、それが塩素酸ナトリウム、塩素酸カリウムあるいは塩化ナトリウムの単品ないしは混和物のいずれであるか、基礎実験(山平鑑定)のデータが不十分であるので、いずれとも同定することができないという。(松田第二鑑定、第三鑑定については後述する。)
(3) 検討
以上のとおり、前掲(2)のⅰないしⅲは、いずれも山平鑑定の検査結果に徴すると、同人が検査した試料中の物質には塩素酸ナトリウムが含まれていると判定してよいというのであり、前掲(2)のⅳないしⅵも、塩素酸ナトリウムの存在を積極的に否定するものではなく、その可能性を十分認めながら、なお塩素酸カリウムが存在した可能性を否定できないというのである。
しかし、前掲(2)の各証拠を子細に検討すると、山平鑑定の検査方法による各イオンの検出限界につき、前掲綿抜証人の所見は、塩素酸イオンの検出限界を五〇ppm、ナトリウムイオンの検出限界を一〇ppm、カリウムイオンの検出限界を五〇ppmであることを前提にしたものであり、同人の当審証言によれば、右の検出限界については、道警本部科学捜査研究所の塩素酸ナトリウムの一級試薬を用いた実験に立会った際の結果もほぼ同様であったことを確認しているというが、他方、梅澤第二鑑定及び松田第一鑑定等によれば、クロレートソーダ(当審職権五、符号三五一の二)を用いて右山平鑑定の検査方法により定性実験を行ったところ、ナトリウムイオンと塩素酸イオンは右綿抜所見がいう前記検出限界よりもはるかに低い濃度で検出されたことが認められるのみならず、後に検討する小野第二鑑定によれば、マッチ(みつだいこ印)の頭薬の抽出液を右山平鑑定と同じ手法で定性試験したところ、後掲【第二表】の結果が得られたというのである。
すなわち、右の結果によれば、試料濃度が五〇ppmから一〇ppmの間は、塩素酸イオンが検出(沈澱反応)されるけれども、カリウムイオンは検出(炎色反応)されない場合があることになるのであるから、証人綿抜及び同石川の前記各当審証言((2)のⅰ、ⅲ)をそのまま措信するわけにはいかず、右のように濃度の非常に低い場合については、なお検討の要があると認められる。
そこで、所論指摘の可能性について検証するために、被告人が逮捕当時所持していた物件中から、塩素酸カリウムを成分中に含むマッチの頭薬及び塩化ナトリウムを主成分とするアジシオとを組み合わせた混和物を作出して、右の点に関し定性試験をおこない、山平鑑定の検査結果と矛盾なく説明がつく場合があるかについて、さらに考察を続けることとする。
(4) 微量のマッチ頭薬と微量の食塩との混和物の組合せについて
ⅰ 松田第二鑑定及び第三鑑定
前記松田禎行は、弁護人の依頼により、弁護人から提供を受けた日産農林工業株式会社製「燕」印マッチについて、マッチの頭薬を削り取ったもの三五〇ミリグラムを五〇ミリリットルのメスコルベンに入れ、純水を加えて、一定時間経過後にこれをグラスフィルターで吸引濾過して可溶部分(以下「試料」という。)を取り出し、試料濃度八〇ppmから四〇ppmまで四段階において、塩素酸イオン、塩素イオン、ナトリウムイオン及びカリウムイオンについて、山平鑑定と同様の手法で定性分折をしたところ、後掲【第三表】の結果を得た(松田第二鑑定六頁)。
【第一表】
濃度(ppm)
ナトリウム
カリウム
塩素酸イオン
塩化物イオン
一万
++
-
++
-
一千
++
-
++
-
一百
++
-
++
-
五〇
++
-
++
-
二〇
/
/
+
/
一〇
+
-
+
-
五
±
-
±
/
二
/
/
-
/
一
-
-
-
-
〇
一
-
-
-
-
【第二表】
濃度(ppm)
ナトリウム
カリウム
塩素酸イオン
塩素イオン
一万
++
++
++
-
四千
++
++
++
-
一千
+
++
++
-
四百
±
+
++
-
一百
-
+
++
-
五〇
-
-
+
-
一〇
-
-
+
-
一
-
-
-
-
そこで、被告人が所持していた味の素株式会社製の「アジシオ」(当審検一五七、符号三五三)と同様のもの(ラベルの成分表示によれば、食塩九〇%、グルタミン酸ナトリウム一〇%含有)を購入し、このアジシオの水溶液を作り、これをマッチ頭薬の抽出液の前記各濃度の試料に加えて、塩素イオンの検出限界を探ったところ、マッチの頭薬の抽出液の濃度いかんに係わりなく、塩素イオンは、アジシオの濃度三ppm以下ではマイナス、四ppmはプラスマイナス、五ppm以上のときはプラスになった。
そこで、アジシオの濃度四ppm、五ppmの各試料について、ナトリウムイオンとカリウムイオンの炎色反応検査を試みたところ、ナトリウムイオンは、抽出液濃度八〇、六〇、五〇、四〇各ppmについて、いずれもプラスマイナスであり、カリウムイオンは、八〇ppmではプラスマイナスまたはプラス、六〇ppm、五〇ppmではいずれもプラスマイナス、四〇ppmではマイナスであって、山平鑑定の判定結果(塩素イオンが疑陽性(プラスマイナス)、ナトリウムイオンが陽性(プラス)、カリウムイオンは陰性(マイナス))と一致ないし近似する濃度の組み合わせの個所は、見付からなかった(松田第二鑑定の表3及び表4)。
右と同様の方法によって(ただし、可溶部分の分離にグラスフィルターを用いず、超遠心分離装置を用いた。)、被告人が所持していた株式会社中外マッチ製「みつだいこ」印マッチ(当審検一五八、符号三五四)と同種のマッチの頭薬について検査したところ、定性分折の結果については、「燕」印マッチの前記検査結果とほぼ一致するものであった。
そこで、「燕」印のマッチの場合と同様に、前記アジシオとの混和水溶液を作って、前記の手法で塩素イオンの検出限界を探ったところ、塩素イオンについては、アジシオの濃度が高ければもちろん塩素イオンの濃度が上昇するが、マッチの頭薬の抽出液濃度自体を下げることにより、塩素イオン濃度が上昇するという、抽出液に対する依存性が認められた。すなわち、マッチの頭薬の抽出液試料濃度二〇、四〇、五〇、六〇、八〇ppmの各段階において、アジシオを添加して塩素イオンがプラス反応を示す最低濃度の混和溶液(A溶液という。)のアジシオの濃度と、同じく塩素イオンがプラスマイナスの反応を示す濃度の混和溶液(B溶液という。)のアジシオ濃度は、それぞれ次のとおりであった(松田第三鑑定六頁)。
抽出液試料濃度
(ppm)
二〇
四〇
五〇
六〇
八〇
A溶液(塩素イオン+)
八ppm
一〇ppm
一二ppm
一二ppm
一五ppm
B溶液(塩素イオン±)
七ppm
九ppm
一〇ppm
一〇ppm
一二ppm
すなわち、マッチの頭薬の抽出液試料濃度が高いと、塩素イオンの検出限界も高いことを、右の数値は示している。この結果をもとに、塩素イオンがプラス反応を示すアジシオの最低濃度段階の混和溶液(A溶液という。)とプラスマイナスになるアジシオの濃度段階の混和溶液(B溶液という。)について、炎色反応検査によりナトリウムイオン、カリウムイオンがそれぞれ検出されるかを検査したところ、後掲【第四表】の結果を得た(松田第三鑑定の表3)。
すなわち、マッチ頭薬の抽出液の試料濃度四〇ppm、アジシオの試料濃度九ppmを混和したB溶液において、硝酸銀試液法による塩素イオンの反応はプラスマイナス、塩素酸イオンの反応はプラス、ナトリウムイオンの炎色反応はプラス、カリウムイオンの炎色反応はマイナスとなり、この混和の組み合わせにおいて山平鑑定の定性分析結果とほぼ同様の検査結果が得られたというのである。
ⅱ 小野第二ないし第五鑑定
北海道立工業試験場において化学分析にたずさわる小野富三は、検察官の依頼により、まず、前記「みつだいこ」印マッチの頭薬のみの定性分析をしたところ、前叙のように、一〇ppm以上五〇ppm以下のときにおいて、塩素酸イオンが一プラスになったほかは、ナトリウムイオン、カリウムイオン、塩素酸イオンがいずれもすべてマイナスになるなど、前掲【第一表】記載のとおり判定された(小野第二鑑定)。
また、道立工業試験場で同じく化学分析にたずさわる高野明富において、前記「みつだいこ」印マッチの頭薬粉末201.5ミリグラム及び前記「アジシオ」202.0ミリグラムの等量混和の試料を作って、その抽出液につき定量分析の方法により分析し、その結果を、試料の乾燥ベースを基準にしてパーセントで表示すると、次のとおりであった(北海道立工業試験場長作成の昭和六〇年八月二三日付回答書、当審検一七二、当審証人高野明富の証言、第二六回公判)。
塩素イオン 27.8パーセント
塩素酸イオン 17.6パーセント
ナトリウム 17.8パーセント
カリウム 8.1パーセント
次いで、前記小野において、同様の試料につき、山平鑑定と同様の方法によって前記各イオンについて定性分析したところ、後掲【第五表】の結果が得られた。
これを要するに、試料濃度一〇ppmのときに塩素イオンはプラスとなるが、その余のイオンはすべてマイナスとなり、試料濃度五〇ppmのときは、塩素酸イオン及びナトリウムイオンがともにプラスになるが、塩素イオンもプラスになったというのである(小野第三鑑定)。
そこで、同人は、定性分析の手法により塩素酸イオンの検出限界を探るために、前記「みつだいこ」印マッチの頭薬三五〇ミリグラムを削り取り、これを五〇ミリリットルの純水中に二四時間放置して抽出液の試料を作って、硝酸銀試液法により検出実験した結果、試料濃度七ppmのときにプラス、五ppmのときにプラスマイナス、三ppmのときにはマイナスであることを確認し、このうち七ppmの試料及び五ppmの試料に、前記「アジシオ」微量をそれぞれ添加していったところ、後掲【第六表】のとおり、硝酸銀試液法による塩素イオンの沈澱反応は、マッチの試料濃度にはかかわりなく、「アジシオ」の量にのみ影響され(アジシオを0.20ミリグラム添加したときはプラスマイナス、0.24ミリグラム添加したときはプラス)、しかも、アジシオを0.20ミリグラム添加した場合、0.24ミリグラム添加した場合のいずれとも抽出液試料の炎色反応による定性試験の結果は、ナトリウムイオン、カリウムイオンともにマイナスであった(小野第四鑑定)。
【第三表】
濃度(ppm)
ナトリウム
カリウム
塩素酸イオン
塩素イオン
八〇
-
+、±
+
-
六〇
-
±
+
-
五〇
-
±
+
-
四〇
-
-
+
-
【第四表】
濃度(ppm)
溶液
ナトリウム
カリウム
八〇
A
+
+、±
B
+
+、±
六〇
A
+
±
B
+
±
五〇
A
+
±
B
+
±
四〇
A
+
-
B
+
-
二〇
A
±
-
B
±
-
【第五表】
濃度(ppm)
ナトリウム
カリウム
塩素酸イオン
塩素イオン
一万
++
++
++
++
四千
++
++
++
++
一千
++
+
++
++
四百
++
+
++
++
一百
+
-
+
++
五〇
+
-
+
+
一〇
-
-
-
+
一
-
-
-
-
次に、同人は、松田第三鑑定の結果にかんがみ、同鑑定とほぼ同様の条件(ただし、試料の容器として松田鑑定が用いたメスコルベンではなく、共栓の三角フラスコを用いた。)のもとに、「燕」印マッチ及び「みつだいこ」印マッチの各頭薬の抽出液についてその追試を試みたところ、いずれのマッチについても、松田第三鑑定が「燕」印マッチの頭薬について得たと同様の結論、すなわち、硝酸銀試液法により塩素イオンの検出限界を探ると、「燕」印、「みつだいこ」印いずれのマッチの場合も、マッチ頭薬の抽出液の試料濃度にはかかわりなく、アジシオの添加濃度が四ppmのときにプラスマイナス、五ppmのときにプラスとなった。
そこで、アジシオ四ppm、五ppmがそれぞれ加えられたマッチの頭薬の各抽出液試料について、ナトリウムイオンとカリウムイオンの検出の有無を炎色反応で調べたところ、いずれの抽出液試料とも、後掲【第七表】、【第八表】のとおり、抽出液試料の濃度八〇、六〇、五〇、四〇の各ppmの段階で、ナトリウムイオンはいずれもマイナスであり、カリウムイオンは八〇ppmでプラスマイナス、六〇、五〇、四〇の各ppmではマイナスであった。
【第六表】
濃度(ppm)
七
七
五
五
アジシオ添加量(mg)
0.24
0.20
0.24
0.20
塩素イオン
+
±
+
±
ナトリウム
-
-
-
-
カリウム
-
-
-
-
【第七表】(アジシオ濃度四ppmで塩素イオンがプラスマイナスの場合)
濃度(ppm)
ナトリウム
カリウム
八〇
-
±
六〇
-
-
五〇
-
-
四〇
-
-
【第八表】(アジシオ濃度五ppmで塩素イオンがプラスの場合)
濃度(ppm)
ナトリウム
カリウム
八〇
-
±
六〇
-
-
五〇
-
-
四〇
-
-
したがって、小野第五鑑定の結果として、結局、マッチの頭薬の抽出液と「アジシオ」との混和溶液については、その混合比を微妙に変えてみても、山平鑑定の定性分析の結果と一致する場合を見付けることができなかったというのである(小野第五鑑定の表―3、表―2)。
ⅲ 検討
マッチの頭薬の抽出液に含まれる塩素イオンの量は、小野第一鑑定及び松田第二鑑定によって明らかにされているように、「みつだいこ」印、「燕」印いずれについても、極めて微量であるから(小野第一鑑定によれば成分比が0.1パーセント以下にしかすぎない。)、本件のようにマッチの頭薬の抽出液とアジシオの混和物の試料について、塩素イオンの有無を検査しようとするとき、マッチの頭薬に含まれている塩素イオンの存在は、実際上殆ど無視してよく、右の試料中の塩素イオンは殆どすべてアジシオに由来すると考えられるにもかかわらず、松田第三鑑定の結果によれば、「みつだいこ」印マッチの頭薬の抽出液とアジシオの混和物の試料については、各濃度段階毎に、山平鑑定がおこなったと同様に、硝酸銀試液法により塩素イオンの定性試験をしたところ(念のため、分光光度計による測定もおこなった。)、アジシオ濃度に対する濃度依存性があるのは当然として、マッチ頭薬の抽出液の濃度が下がると、塩素イオンの濃度が上昇するという相関関係が見られたというのである。その原因につき、証人松田の当審証言(第四〇回公判)及び松田第三鑑定は、「みつだいこ」印のマッチの頭薬には硝酸銀試液法の塩化銀の沈澱反応を妨害するものが何か含まれているのではないか(証人松田の当審証言によれば「コロイド」ではないかという。)というのであるが、しかし、松田第三鑑定からも明らかなように、右試料における、塩素イオンについての定性分析の結果と分光光度計で測定した定量分析の結果とが必ずしも比例していない部分があるのみならず(松田第三鑑定の表2参照)、右の結果は、明らかに前記小野第五鑑定の追試験結果と齟齬するものであり、しかも、松田においても、このような現象が、「燕」印マッチの場合には見られず、「みつだいこ」印マッチの場合にのみ見られることに疑問を抱き、同鑑定においては超遠心分離装置を使用して不溶性の物質を濾別していたものを(「燕」印マッチについてはグラスフィルターで濾過することができたが、「みつだいこ」印のマッチについては、グラスフィルターを使用すると目詰まりを起こして濾過できなかったため超遠心分離装置を使用したもの)、あらためてマイクレスGVフィルターで濾過したところ、頭薬の抽出液の濃度に対する依存性がいくぶん低下したというのである。
このような経緯に徴すると、右松田第三鑑定の塩素イオンに関する検査結果は、「みつだいこ」印マッチの頭薬の抽出液の濾別の方法に問題があったか、あるいは使用容器がメスコルベンであったことから、内部の洗浄が難しく、十分でなかったため、塩素イオンが残留したためではないかとの疑いも残り、右の検査結果はにわかに措信しがたいと言わざるをえない。
しかし、所論にかんがみ、松田第三鑑定の塩素イオンに関する右検査結果を一応措信できるものとしてなお検討してみるに、松田第三鑑定において、前記のように、「みつだいこ」印マッチの頭薬の抽出液の試料濃度四〇ppm、アジシオの濃度九ppmの混和溶液の場合、硝酸銀試液法による塩素イオンの定性試験がプラスマイナスであり、炎色反応検査の結果、ナトリウムイオンがプラス、カリウムイオンがマイナスであったというのであるから(前掲【第四表】参照)、山平鑑定がおこなった花柄ビニールシート、花柄カーテンの付着物の抽出溶液の定性分析検査の結果と合致するように見える。
しかしながら、山平鑑定においては、前叙のとおり、試料中のカリウムイオンの有無を炎色反応で検査するにあたり、当初、試料約一ミリリットルを用いて検出できなかったので、漸次、試料を濃縮しては炎色反応検査を繰り返し、最終的には約一〇倍くらいにまで濃度を高めて検査したが、遂にカリウムイオンの炎色反応は視認できなかったというのである。ところが、前記松田第三鑑定で得られた組み合わせの場合、抽出液試料濃度を二倍(八〇ppm)に上げ、カリウムイオンの炎色反応を検査すると、カリウムイオンはプラスまたはプラスマイナスとして出現することが明らかである(前掲【第四表】、松田第三鑑定の表3参照)。
このように試料濃度を二倍に高めただけでカリウムイオンの炎色反応が出現する試料は、明らかに前記山平鑑定が定性分析の対象とした物質とは異なるといわざるをえない。
なお、所論は、小野第四鑑定及び第五鑑定について、機器分析の方法による確認をしなかったことを理由に、鑑定が不正確であると批判するが、鑑定依頼の趣旨が山平鑑定が用いた定性分析の方法によることを求めており、視認による検出限界値を探ろうとする場合に、より精度の高い機器分析の方法を併用しなかったことを批判するのは当たらない。所論の理由のないことは明らかである。
以上を要するに、これまで検討したところから、山平鑑定の鑑定資料である花柄ビニールシート(資料二二)及び花柄カーテン(同三三)には塩素酸ナトリウムが付着していたものと推認される。
(5) 除草剤の入手を窺わせるその他の証拠について
所論は、要するに、仮に被告人が爆発物製造のために除草剤を所持していたとすると、その量は相当多量であったはずであるのに、被告人の居室、被告人の投棄物等を調べても、除草剤が発見されていないことは、被告人が除草剤を所持していなかったことの証左であるにもかかわらず、服部雅文から送付されてきた除草剤を被告人が所持していた旨認定した原判決は、事実の誤認があるというのである。
しかしながら、すでに検討したように、被告人が投棄した前記花柄ビニールシート及び花柄カーテンには、塩素酸ナトリウムが付着していたことが推認されるところ、被告人は、昭和五〇年の秋に調達したと言う茶箱を昭和五一年八月に投棄しているが、これとは別に幌見峠に投棄した木炭、硫黄の分量に比して、投棄した茶箱の個数が多く、かつ収納容積が大きすぎるのみならず、右の茶箱は、いずれもビニールテープで目張りされていて、吸湿性の強い除草剤を収納するのに適していること、昭和五〇年一〇月ないし一一月の時点で、木炭、硫黄を入手していて、その粉末化の作業に取り掛かったこと、また同年末には、爆体容器用に北大構内から消火器を盗取したこと、昭和五一年一月中旬ころ被告人を訪ねた前記加藤に対し爆弾闘争が近いことを印象付け憂慮させたこと、警察が押収した被告人の投棄物は、被告人が投棄した物件の一部にすぎず(昭和五一年八月六日以降、被告人が警察官の追尾をまいて、車で遠方へ所持品を投棄にいったことは、関係証拠に徴し明らかであり、それ以前にも警察に踏み込まれることを予測して危険な物件を投棄したことは、被告人の自認するところである。)、可児町事件の顛末を右加藤から電話連絡で知らされ、爆発物製造を端的に疑われる虞れのある除草剤、「腹腹時計」(技術篇)、「薔薇の詩」等を、直ちに投棄するなどして、警察が張り込みを開始する以前に処分したことも十分考えられること、また、先にも検討したとおり(前掲五の2)、証人加藤三郎の当審証言によれば、同人は、爆弾闘争に用いる目的で除草剤一〇キログラムを所持していたが、昭和五一年七月の前記可児町事件でこれを失うと、警察から指名手配されて逃走中であったにもかかわらず、僅か二か月余り後の同年九月ころには再び除草剤二〇キログラム(これは、同人の一連の爆破事件の爆発物の混合爆薬に用いられた。)を入手しているところ、その入手先は供述を拒んで語らないが、入手について工夫したとか、苦労したことはないというのであるから(当審第七回公判調書、第二七回公判)、同人と連絡を密に取り合い、同志的な結合も強かった被告人においても、加藤を通じ、あるいは同人と同じルートを通じるなどして除草剤を入手することも十分可能であったと認められること、などの事情を併せ考えると、被告人が除草剤を入手し、所持していたことは、疑いないものと認められる。
このように検討すると、前記花柄ビニールシート及び花柄カーテンの付着物に塩素酸ナトリウムの存在が推認されるほかには、除草剤が被告人の身辺から発見されなかったことは、被告人が除草剤を所持していたことを認定するについて妨げとなるものとは認め難い。なお所論は、服部雅文からの除草剤の入手を問題にするが、原判決は被告人が右服部から除草剤を入手した旨認定しているわけではないから、その主張は前提において失当である。
以上の次第で、先に検討したとおり、前記花柄ビニールシート及び花柄カーテンに付着していた白色粉末様の物質が、そのまますなわち塩素酸ナトリウムであるとは必ずしも認め難く、この点についての原判決の認定は妥当とは言い難いけれども、右花柄ビニールシート、花柄カーテンの付着物を定性分析した山平鑑定の結果をはじめ関係証拠により、山平鑑定の鑑定資料中、右花柄ビニールシートと花柄カーテンに塩素酸ナトリウムが付着していたことが推認され、その余の状況証拠を併せ見ると、被告人が、本件事件当時、除草剤を所持し、爆発物の製造に用いたことが認定できる。
したがって、この点に関する原判断は結局相当であり、前記の認定の誤りは判決に影響を及ぼすものではないことが明らかである。
(二) 消火器について
所論は、要するに、(1)被告人が消火器二本を逮捕の直前まで所持していたのは、雑誌「月刊ダン」の記事を読んで、本件爆体容器として使用された消火器は、被告人が所持する消火器とは製造型式の異なるハッタ式DP一〇型であると思っていたからであって、もし、被告人が本件事件の犯人であり、被告人所持の消火器二本の製造形式が本件事件に使われた消火器と同じであると知っていたならば、これら二本の消火器を既に処分しているはずであって、逮捕の直前まで右消火器を所持し続けていたはずがない、(2)被告人が本件事件の爆体容器に使われたのと同型式の消火器二本を所持していたことは、本件事件となんらの係わりもないことで、被告人が本件事件で爆体容器に使われた消火器を前記二本の消火器とともに所持していたことを推認させるものではない、というのである(弁護人趣意・第一章第三の三の2、被告人趣意・第二の三)。
検討するに、関係証拠によれば、被告人が本件爆発物の爆体容器に使われたハッタ式一〇LPI型消火器と全く同型式の消火器二本(北大庁薬つ―三の二二五、北大庁工つ―三の八五九)を逮捕される直前まで所持していたことが認められ、被告人は、これら消火器を、昭和五〇年一二月末、北大薬学部及び工学部からそれぞれ盗み出したことを自認している。そして、右消火器が紛失した当時、同形式の消火器が他にも薬学部及び工学部の各構内から紛失している事情は、前掲五の1においてみたとおりである。
(1) 所論指摘のように、被告人が所持していたと認められる雑誌「月刊ダン」昭和五一年五月号(原審検六三五、符号一八一)の道庁爆破の特集記事には、本件事件の爆発物の爆体容器に用いられた消火器は初田製作所の「DP一〇型」である旨の記述が認められる。
しかしながら、消火器は、「腹腹時計」(技術篇)が爆体容器として理想的な形状として挙げるボンベ状の容器であり、消火器が爆体容器に用いられた事例は、本件事件に限らず他にも前例があり、殊に本件事件発生後は、札幌市内の民家の間借り人が北大の管理ラベルの貼られた消火器を、特段の理由もなく、しかも複数個、所持していることが捜査当局に発覚すれば、そのこと自体、消火器の製造形式はどうであれ、本件犯行との係わりを疑われる事態であることは、ここに詳しく論ずるまでもないのであって、前記の雑誌に伝えられた消火器の製造型式の違いを言い立てて、本件に使用された消火器と形式が異なると思っていたから、疑われる虞れはないと思い捨てずにいたという弁解は、右雑誌の記事の誤りを楯にとった強弁であるとしか評しようがない。
関係証拠から認められる被告人の言動に徴すると(前掲八の2、九の1参照)、被告人が、本件事件後も前記消火器二本を所持し続けていたのは、事態の成り行き如何によっては、このまま北海道に留どまってさらに爆弾闘争を継続するつもりであり、本件事件後、乙野宅に間借り人について聞き込みに訪れた警察官、あるいは勤務先である山一パーキングに不審者の聞き込みに来た警察官からの事情聴取に対して、無事対応でき、不審を持たれずに済んだことに自信を抱き、当初から本名を名乗り、住民登録もしたうえ、定職を持って規則正しい生活をしており、大家である乙野夫婦の受けも悪くない自分に、捜査の手が延びることはまずあるまいと楽観していたことによるものと推察される。
そして、昭和五一年八月に入って、前記の消火器をその他の爆発物製造の材料、茶箱などとともに、札幌郊外の幌見峠付近に投棄したのは、多治見の実家に電話して様子を探った結果などから判断して、いよいよ警察の手が身辺に及ぶ事態のあり得ることを察知したためであり、したがって、前記消火器二本を、それまで投棄せずに所持し続けていたことには、なんの不審もない。
昭和五一年七月二日の可児町事件の数日後、前記加藤から電話連絡を受けて急遽上京し、同人と面談した被告人が、欠勤が長引いて山一パーキングの管理人の職を解雇されそうであると知ると、その仕事の継続を強く希望して、乙野方などに警察官の内偵が入っていないことを電話で確かめたうえで札幌へ舞い戻って復職を交渉し(この交渉は結局まとまらなかった。)、同月下旬再び上京して右加藤に会った際にも、同人に対して「逮捕の可能性はあまりないのではないか。」などと話し、割合楽観的に考えているようであった(当審証人加藤三郎の供述、第七回公判調書)こと、幌見峠付近へ投棄に赴いた際、警察車両の尾行に気付かず、消火器を含め前記の物件を無事投棄できたと思った被告人が、同年八月七日ころ右加藤に電話で連絡し、「ヤバイものは全部捨てた、自然な形でアパートを出る、大丈夫だ。」などと語った(右同)ことなどは、この間の被告人の楽観的な心情を物語っているということができる。
(2) しかして、被告人が本件事件の爆体容器に使われた消火器と同型式の消火器二本を昭和五〇年一二月末に北大から盗み出して所持し、逮捕の直前になって、これらをわざわざ幌見峠まで運んで投棄した事実があるからといって、このことのみから直ちに被告人が本件事件に爆体容器として使われた消火器を所持していたと認定することができないことはいうまでもない。
しかし、前掲五の1でも検討したとおり、被告人が右消火器のうちの一本を工学部の建物から窃取したのと同じころに、同じ工学部の棟続きの建物から同型式の消火器が紛失しており、また、薬学部においても前示の期間中に同型式の消火器が紛失していること、これらが換金目的で盗まれたとは考え難いこと、被告人が乙野方に遺留した物件、被告人が投棄して警察から押収された物件などから窺知される被告人の爆発物の準備状況等に徴すると、被告人が本件事件の爆体容器に用いられた消火器と同じ製造形式の消火器二本を所持していた事実は、前掲五の2ないし7に挙げたその余の状況証拠とも相俟って、被告人が本件爆体容器に用いられた消火器を北大構内から窃取し、あるいはその他の方法で入手し、本件爆発物の製造に利用したことを推認させる有力な状況証拠であるというべきである。
このような次第で、所論はいずれも採用の限りではない。
(三) ビニールテープについて
所論は、要するに、原判決は、本件爆発物の破片として押収された証拠物に付着していたビニールテープ(時限装置として使用された旅行用時計ツーリスト〇二四、乾電池、中間スイッチなどを一まとめにし、爆体容器の上部に固定するのに使用されたと認められるもの)と、被告人が投棄した茶箱の目張りに使われていたビニールテープとは、いずれも同一銘柄であると推定し得るというが、その根拠となった岡元賢二作成の鑑定書(原審検七五〇、以下「岡元鑑定」という。)によれば、同一銘柄とされるビニールテープは、その幅が不明であるものが含まれ、赤外線吸収スペクトル検査を省略し、または判定不能であるものが含まれていること、あるいは基材フイルムの表面の状態について検査が省略され、観察不能のものが含まれるなど、各検査が網羅的でないばかりか、判定が恣意的であり、科学性に欠けるから措信することができないし、仮に、各ビニールテープが同一銘柄のものであったとしても、市販のビニールテープに希少性がない以上、被告人の茶箱と本件爆発物とを結び付けることはできない、というのである(弁護人趣意・第一章第三の三の3、被告人趣意・第二の四)。
そこで検討するに、岡元鑑定によれば、鑑定資料一ないし五及び七(いずも本件爆発物の破片に付着していたもの)、同一一ないし三八(いずれも被告人所有の各茶箱の目張りに用いられていたもの)は、ビニールテープであって、外見上異なるところがないうえ、鑑定資料一一ないし三八のビニールテープの幅は三八ミリメートルか、あるいは不明であると認められるところ、本件爆発物の破片に付着していたビニールテープは、鑑定資料一ないし五についてはその幅が不明であり、同七については三〇ミリメートル以上と推定されるというのであり、本件爆発物の破片に付着していたビニールテープと被告人所有の茶箱の目張り用ビニールテープとの間には、少なくとも、基材フィルム表面の特徴等からその類似性を判定する上で障害となる相異点は認められない。
次に、ビニールテープ内面の接着剤についての赤外線吸収スペクトルの検査及び基材フィルム表面の実体顕微鏡による検査は、その一部について実施されただけであることは所論指摘のとおりであるが、同一の茶箱の目張りに貼られているビニールテープは、外観が明らかに相異する等の事情が窺われないかぎり、同じビニールテープが使用されたものと一応推認することができるから、このことを前提に前記の各鑑定資料についてみると、岡元鑑定及び同人の原審証言(第六一回公判調書)によれば、岡元は、鑑定資料一、二、七と一一、一三、一七、三三及び三五について接着剤の検査をしたところ、いずれも接着面はゴム系(スチレンブタジエンゴム系と思われる。)で同種類とみられ、資料一、二、七、一七、三三については、ビニールテープ内面の接着剤の赤外線吸収スペクトルのピーク長比がいずれも1.12ないし1.34の範囲にあること、同二、七、一一、一七、二八及び三五については、基材フィルムの外面(接着剤が付いていない表面)に平行な直線と微小丸点(凹状)が配列しており、かつ内面(接着剤をアセトンに浸して剥離させた内表面)があばた状凹凸が中程度であること等の共通点が観察されたことから、検査を省略し、あるいは観察できなかったものを含めて、「資料一ないし五及び七と、資料一一ないし三八の各ビニールテープは類似するものと思われる(同一銘柄のものと推定される)」との結論を出したことが認められる。
ところが、右鑑定において、ビニールテープが相互に類似する理由の一つとして挙げられた資料一、二、七、一一、一七及び三三の赤外線吸収スペクトルのピーク長比がいずれも1.12〜1.34の範囲にあることについては、対照資料の赤外線吸収スペクトルのピーク長比(鑑定書七頁参照)と対比するとき、何故にピーク長比が前掲の範囲にあることが、相互類似の根拠になるのか必ずしも判然としないといわざるをえない。
しかし、各ビニールテープの表面の特徴については、対照資料の各特徴点との対比において有意差を認めることができ、相互類似性は肯認できると思われる。
このような次第で、岡元鑑定の結果から、本件爆発物の破片に使用されたビニールテープが、被告人所持の茶箱の目張りに使用されたビニールテープと同一のテープであるとまでは言えないことは、所論の指摘をまつまでもないが、他の証拠と相俟って、本件爆発物と被告人との結び付きを推認するについての一つの状況証拠であるということができる。
したがって、原判決が右鑑定結果等を援用して、被告人が茶箱の目張りに用いたと同一銘柄のビニールテープを用いて本件爆発物に細工したと推論することも十分可能であると判示したことが誤りであるとまでは認められない。なお、所論中には、当審鑑定人小松藤男作成の鑑定書(当審職権九)を引いて岡元鑑定を論難する主張がみられるが、右鑑定書を子細に検討しても、岡元鑑定について右に判示したところが誤りであるとする事由は見いだし難い。
以上の次第で、所論は採用することができない。
(四) 接着剤について
所論は、要するに、原判決は、本件爆発物の時限装置に用いられたツーリスト〇二四のリンの内側、下板止めネジ、起爆装置の積層乾電池の陽極端子及び電気雷管付属の被覆脚線を接続した中間スイッチの端子ネジに、それぞれエチルシアノアクリレート系の接着剤が付着していたところ、被告人が右接着剤と同種の接着剤二本を所持していたのみならず、その先端部にエチルシアノアクリレート系接着剤が付着したドライバーを所持していたこと、右ドライバーは下板止めネジの着脱に使用可能であることなどを理由に、被告人が所持していた右ドライバーと瞬間接着剤を使用して、ツーリスト〇二四の下板止めネジに本件リード線を接続し、かつ固着するなどして本件爆発物を製造したと推認しても何ら不合理ではないと判示するが、その根拠となったと認められる岡元賢二作成の鑑定書(原審検二五〇)によれば、右の各接着剤はいずれもエチルシアノアクリレート系の接着剤であることが判明しているに過ぎず、この種の接着剤は一〇種類も市販されており、その異同識別はできないのであるから特定性に欠けること、右ドライバーはツーリスト〇二四の下板止めネジの着脱専用に作られた特殊なものではなく、スケールの合うネジの着脱には総て使用可能であること、被告人の投棄物件の中に、使用痕跡のある糸ハンダ、ペースト及びハンダこて(原審検六二七ないし六三一、六〇一、符号一七三ないし一七七、一四七)が含まれていることからも明らかなように、被告人は、時計、乾電池、中間スイッチ等にリード線を結合する場合は、ハンダ付けをしたうえで更に接着剤で補強するという方法をとっていたのであるから(被告人の原審供述、第一〇四回公判調書)、ハンダが使用された形跡のない本件爆発物の場合とはその工作の方法を異にすることなどに徴し、原判決の認定は誤りであるというのである(弁護人趣意・第一章第三の三の4、被告人趣意・第二の五)。
そこで検討するに、関係証拠によれば、本件爆発物の時限装置、起爆装置の一部に付着していたエチルシアノアクリレート系の接着剤は当時市販されているものだけでも一〇種類に及ぶが、さらにその銘柄を特定することは困難であり、被告人がエチルシアノアクリレート系の接着剤セメダイン三〇〇〇ゴールドを所持していたことだけから、被告人が本件爆発物の時限装置の工作に関与したということはできないことは、言うまでもない。
しかしながら、関係証拠によれば、本件爆発物の時限装置として使われたツーリスト〇二四のリン、下板止めネジ、起爆装置の積層乾電池及び電気雷管等の一部分に、エチルシアノアクリレート系の接着剤が付着していたところ、被告人は、エチルシアノアクリレート系の接着剤(セメダイン三〇〇〇ゴールド)二本(原審検六一九、符号一六五)を所持していたのみならず、被告人が所持し使用したと認められるドライバー(原審検六一〇、符号一五六)にも同種類の接着剤が付着していたこと、右ドライバーはツーリスト〇二四の下板止めネジの着脱に使用可能であることが、それぞれ認められることは、原判決の判示するとおりである。
このような事情の下で考察すると、被告人がツーリスト〇二四の下板止めネジに本件リード線を接続し、かつ固着するなどの作業をするについて、右ドライバーと被告人所持のエチルシアノアクリレート系の接着剤セメダイン三〇〇〇ゴールドを使用したと推認しても不合理ではないとする原判決の見方も十分成り立つと言うべきである。
また、所論は、被告人が、時計、乾電池、中間スイッチ等にリード線を結合する場合には、ハンダ付けをしたうえ、さらに接着剤で補強するので、本件爆発物の場合とは作業の手法が異なると主張するが、関係証拠によれば、被告人は爆発物の製造について種々研究していたことが窺われるのであって、被告人が所持し、使用の跡が窺われるハンダ付けの材料、用具は、別の工作に用いたことも十分考えられるのであり、本件爆発物についてハンダ付けの跡が認められないからといって、被告人が本件時限装置を工作しなかったということはできないというべきである。したがって、右所論は採用し難い。
結局、被告人が本件爆発物に使用されたと同種のエチルシアノアクリレート系接着剤を所持していた事実は、その余の状況証拠と相俟って、被告人が本件事件の犯人であることを認定するうえで、状況証拠の一つとなり得るということができる。各所論の理由がないことは明らかである。
(五) 時限装置の接点に使われた金属片について
所論は、要するに、(1)本件時限装置に使われたツーリスト〇二四のリン内側に付着していた接着剤の幅が広いところで約五ミリメートル、狭いところでは約一ミリメートルしかないのに対し、被告人が所持していた簡便ナイフホールダーから切断された未発見の鉄板片は、その幅が五ミリメートル、長さが四センチメートルであるから、もし右鉄板片を使用したとしても、右の接着剤の付着の状況では、リンと電気的に絶縁することができず、接点として利用することができないのに、未発見の鉄板片を時限装置の接点に使用したものと認定した原判決には事実の誤認がある、(2)本件の時限装置は、「栄養分析表」(原審検六五三、符号一九九)に記載されているように、ツーリスト〇二四のアラームが作動する際に、撞木によってたたかれるリン内側部分に、接着剤を幅一ないし五ミリメートル、長さ三ないし四センチメートルの大きさに付着させて電気的に絶縁した上に、通電性のある金属片を張り付けて接点とし、予め設定した時刻に上げバネが下がり、上げバネによって押さえられていた撞木が解放されてリンの内側をたたくことを利用するもの(いわゆる「撞木式」)であるところ、被告人が工作した時限装置は、被告人の原審供述からも明らかなように、「腹腹時計」(技術篇)に記載されている。いわゆる「上げバネ式」であって、時限装置としての工作の方法が異なる、というのである(弁護人趣意・第一章第三の三の5、被告人趣意第二の6)。
そこで案ずるに、(1)前掲五の5に検討したとおり、本件爆発物の時限装置として使用されたと認められるツーリスト〇二四のリン内側に、幅約一ないし五ミリメートル、長さ約三ないし四センチメートルの広さにエチルシアノアクリレート系の接着剤が付着しているところ、被告人の所持していた簡便ナイフホールダー(原審検六一五、符号一六一)から切断された未発見の鉄板片は、幅約五ミリメートル、長さ約四センチメートルであり、右ツーリスト〇二四のリン内側に付着していた接着剤の幅と同じか、部分的にはそれよりも広いものであるから、この鉄板片を本件爆発物の時限装置の電気接点に用いたとすると、工作の仕方によっては絶縁が困難となることも考えられないではない。しかし、鉄板片とリン本体との間に接着剤を厚めに介在させるなどすることにより、両者を絶縁することは十分に可能であると認められる。しかも、被告人は、時限装置を作るにあたり、テスター(原審検六三二、符号一七八)を用いて時限装置の通電の状態をテストしたと供述しており(原審第一〇七回公判調書)、接点の絶縁の具合については、右テスターを用いて容易に安全性を確認することができた筈である。したがって、所論指摘の点は、原判決の鉄板片に関する事実認定に影響を及ぼすものではない。
(2) 所論指摘のように、「腹腹時計」(技術篇)には、時限装置として旅行用時計のベルを作動させる撞木(ハンマー)を押さえている板バネをスイッチの電極として利用するいわゆる「上げバネ式」が紹介されているところ、被告人は本件事件発生の以前に、「腹腹時計」(技術篇)を所持していたことを認めており、この時限装置についての知識はあったと思われるが、他方、被告人が所持していた前記「栄養分析表」には、いわゆる撞木式の時限装置について記述されていて、下線を引く等学習した形跡が認められることなどを考慮すると、被告人がいわゆる撞木式を採用して時限装置を作ったことも十分考えられるのであって、本件爆発物の時限装置の工作が被告人の時限装置に関する知識、技能と予盾するものでないことは、原判決が指摘するとおりであると認められる。
以上の次第で、これらの所論はいずれも採用することができない。
(六) リン止めネジについて
所論は、要するに、(1)乙野次郎方二階の被告人の居室から発見押収された本件リン止めネジ(原審検七六六、符号二六九)は、被告人の居室から押収されたという事実自体、捜査官によって捏造された疑いが強く、(2)そうでないとしても、右ネジは、被告人が、本件事件とは関係なく、スピネットを利用して時限装置を作成した際に取り外した、リン止め用のネジであるのに、本件の時限装置に使用されたツーリスト〇二四に使用されていたリン止め用ネジであると認定した原判決には、事実の誤認がある、というのである(弁護人趣意・第一章第三の三の6、被告人趣意・第二の七)。
そこで検討するに、(1)爆捜本部の警察官らによって、本件リン止めネジ(原審検七六六、符号二六九)が発見押収された経緯は、前掲五の4に認定したとおりであるが、右ネジを発見、押収した警察官里幸夫(原審第四六回、第四七回各公判調書)及び同佐藤修一(原審第四七回公判調書)の各証言をつぶさに検討しても、本件ネジについて、警察官らが何等かの証拠捏造工作をしたなどの証跡は見出すことができない。
(2) ところで、前掲五の4で検討したように、本件ネジと同規格のマイナスネジが、リズム時計工業株式会社製の小型置目覚時計(旅行用時計を含む。)のリン止め用ネジとして広く使われていたことが明らかであり、本件ネジが被告人が乙野方に遺留した布団袋の中から発見されたからといって、直ちに被告人が本件爆発物の時限装置を工作したとは断定し難い。
しかしながら、前叙のとおり、本件ネジの頭部の傷は、時計から取り外す際にドライバー等で付けられたものと推認されるところ、被告人は、自分はスピネットを利用して「上げばね式」の時限装置を作ったが、本件ネジは、その工作の際に取り外したままになり、捜査の手が及ぶことをおそれて右時限装置を捨てた後も残ったのであろう、と弁解するのであるが、被告人は原審以来、右時限装置の投棄場所について、検察官の質問に対して具体的な供述を拒否し、弁護人の質問に対してもあい昧な答えに終始しているのみならず、工作したと称するスピネットの購入時期、具体的な購入先等についても頑なにこれを明らかにしないこと等の事情に徴すると、原判決が言うとおり、被告人は原審証人中島富士雄(第四八回公判調書)や同吉村新(第四九回公判調書)の各証言を聴いて、本件ネジと同規格のマイナスネジがリズム時計工業株式会社製の旅行用時計ツーリスト〇二四のリン止めネジとして使用されているだけでなく、右とは別種類の同社製旅行用時計スピネット等にも使用されていることを知り、前記のような弁解を作出したのではないかとみることにも十分合理性が認められるのであって、これらの事情をその余の状況証拠と併せみると、被告人がツーリスト〇二四を用いて本件爆発物の時限装置を工作し、その際取り外したままになった本件ネジが、布団とともに被告人の布団袋の中に紛れ込んだのではないかと推認できるのである。したがって、この点に関する原判決の事実認定に誤認の廉は認め難く、所論はいずれも採用できない。
(七) 本件爆発物その他の材料・工具等について
(1) 電気雷管について
所論は、被告人は電気雷管の入手は極めて困難であることから、ガス点火用ヒーターを用いて起爆装置を作る考えでいたものであって、被告人の投棄物件中に、点火ヒーター部分の取り去られたガスライター(当審弁一七一、符号三六四)等が含まれていたのはその証左であるのに、原判決が被告人が電気雷管を入手して本件爆発物を製造したと認定したのは事実の誤認である、というのである(弁護人趣意・第一章第三の三の7、被告人趣意・第二の八)。
そこで、検討するに、本件爆発物の起爆装置には瞬発式六号電気雷管が用いられているところ、被告人の投棄物件、遺留物件等、被告人が所持していたと認められる物件の中には電気雷管ないしその包装物等、被告人が本件事件当時、電気雷管を入手していたことを窺わせる直接の証拠は見いだせない。
しかしながら、被告人が爆発物関係の参考書等を多数所持していたこと、とくに、被告人が手書きしたノート紙一二枚(原審検六五七、符号二〇三)には、火薬、爆薬などについての記載とともに、「*工業らいかんは現在……6号のみ」、「*雷かん……2A〜30A以下がよい
耐水性ある 一般には6号がつかわれている」という記載が認められ、被告人が、工業用雷管は六号雷管が一般に使用されていること、耐水性があり、用いる電流は二アンペアないし三〇アンペア以下がよいことなど、電気雷管についても学習、研究していたことが窺われることなどの事情を考慮すると、被告人が瞬発式六号電気雷管を入手し本件爆発物に起爆装置として使用したことは、十分あり得たことと認められる。さらに、当審で取調べた別件判決書(当審検三九ないし四三)にもみられるように、電気雷管の窃盗事件あるいはこれを起爆装置に使用した爆発物取締罰則違反事件が、当時、本件事件の他にも現実に発生していることにも徴すると、電気雷管の法的規制が厳しく、一般にその管理が厳重で、不正目的のための入手は困難であるとはいえ、本件当時、被告人にとって電気雷管の入手が実際上まったく不可能であったとは言い難い。
また、被告人は、所論指摘のガスライターを所持していたことが認められるから、「腹腹時計」(技術篇)の記載にみられるガス点火ヒーターを利用した発火装置を製作していた可能性も認められないわけではないけれども、前叙のとおり、被告人が爆発物の製造について種々の材料、方法等を学習、研究していたことが窺われることなどに徴すると、被告人が起爆装置として点火ヒーターの利用を企てていたことと、電気雷管を入手して、本件で起爆装置に使用したこととは、相容れないものではないと言うべきである。
以上の次第で、所論はこれを採用することができない。
(2) 木炭の微粉末化について
所論は、被告人は逮捕当時、ミキサーを用い、あるいはその他の方法によって木炭の微粉末化を試みてはいたが、道庁爆破事件当時は、未だその方法を模索中であったのに、木炭を微粉末化した上、本件爆発物の材料に用いたと認定した原判決には事実の誤認がある、というのである(弁護人趣意・第一章第三の三の1、被告人趣意・第二の二)。
そこで検討するに、原判決は、被告人が所持していたミキサー(サンヨーミキサーSM−75型、原審検八六〇、符号二七一)に木炭の粉末が付着している旨の岡元賢二、中島富士雄共同作成の昭和五一年一〇月三〇日付鑑定書(原審検九一三)、右ミキサーを使って木炭の微粉末化を試みた旨の被告人の供述(原審第一〇三回公判調書)などから、「被告人が既に硫黄及び木炭を別々に右サンヨーミキサーに掛けるなどして粉砕し、微粉末にする作業を行っていたことが認められる。」と判示して、被告人が右ミキサーを用いて木炭を微粉末にしたことを示唆している。
しかし、関係証拠によれば、本件事件の爆破容器とされた消火器の容量は約5.2リットル(もっとも、その内部に充填する爆薬の容量としては、起爆装置等の容積が差し引かれる。)であるところ、北大工学部教授斎藤勝政作成の鑑定書(当審職権一四)によれば、実験したところ、前記ミキサーの容器の内側表面の損傷は、約0.25キログラムの木炭の粗粉(大豆大)を粉砕して微粉末にすることにより十分生ずる程度であるというのであって、右の木炭の量は、本件爆発物の混合爆薬に用いられたであろう木炭粉末の量(重量比で約一五パーセント)には到底及ばないことが明らかであると認められる。また、右鑑定書によれば、同ミキサーの容器内側表面と、未使用容器を用いて木炭を微粉末化した場合の容器内側表面に、それぞれレーザー光を当ててその透過光の散乱光パターンを比較すると、両者は類似せず、前記ミキサー内側表面に認められる損傷は、木炭粗粉を微粉末にすることにより生じる損傷と必ずしも一致しないというのである。
このような鑑定結果から判断すると、被告人が本件爆発物の爆薬材料として必要な量の木炭を、すべて右ミキサーを用いて微粉末化したとは認め難いといわなければならず、微粉末木炭を具体的にどのようにして調達したか証拠上明らかでないと言わなければならない。しかしながら、木炭の微粉末を調達する方法は、他にも種々考えられるのであって、例えば、ハンマーでたたいて粗粉にした後、さらに、すり鉢を用いるなどして、すり潰すことにより粉砕することも、手間と時間はかかるが可能であったと認められる。
したがって、被告人が本件当時、本件爆発物の混合爆薬に必要な量の木炭の微粉末を調達できなかったとは考え難く、所論は容れることができない。なお、原判決は、その判文から認められるとおり、被告人が、前記ミキサーを利用して木炭を微粉末にしようとしたと公判廷で供述したことから、右の方法によったことを示唆する判示をしたものであって、木炭をミキサーにかけて本件爆発物の混合爆薬の木炭微粉末を調達したと断定したものとは認められない。
以上の次第で、原判決に事実誤認の廉があるとは言えず、所論は採用することができない。
(3) その他の器具等について
所論は、本件爆体容器に用いられた消火器には起爆装置の導線の孔があけられていたところ、被告人は穿孔用のドリルを持っていなかったし、混合爆薬の硫黄等を粉末化するための乳鉢、乳棒及び爆薬を正確に計量するための秤などを所持していなかったから、本件爆発物を製造できたはずはないなどというのである(弁護人趣意・第一章第三の三、被告人趣意・第二の八)。
案ずるに、前記可児町事件の後、前記加藤三郎から連絡をうけ、捜査の手が自分にも及ぶことをおそれた被告人は、相当数の所持品等を各所で投棄して証拠の隠滅を図り、爆捜本部が発見押収したのはそのうちの一部にとどまることは、関係証拠に明らかであるから、ドリル、秤、乳鉢、乳棒等につき、被告人が所持していたことを窺わせる直接の証拠がないからといって、そのことから、直ちに被告人がこれら所論指摘の物件を所持していなかったということにはならないのであって(なお、爆薬の硫黄等を粉末にする用具としての乳鉢、乳棒は、他の用具でも代替が可能であると認められる。)、本件において、被告人の身辺から所論指摘の物件が発見されていないことは、被告人が本件爆発物を製造したことを認定する上で、特段妨げとなるものではない。所論は採用することができない。
5 本件爆発物の設置について
(一) 本件爆発物の設置時間について
所論は、爆発物入りの本件バッグが道庁本庁舎一階エレベーターホールの四号エレベーター付近に置かれたのは、午前八時五〇分以降であり、それ以前に真田高司、飯塚友幸らが目撃したバッグないしゴルフバッグ様のものは、本件バッグではなく、したがって、甲野が見た二人連れは本件の犯人ではないと主張する(弁護人趣意・第一章第四、被告人趣意・第三)。
すなわち、所論は、本件爆発物は、爆発の直前に現場に設置されたと主張し、その理由として、事件当日、道庁本庁舎一階の掃除にあたっていた原審証人向井秀子、同森木ミヨノの供述(いずれも第六四回公判調書)、森下ミヨノの検察官に対する供述調書(原審検八七七)によれば、同人らは当日午前八時四〇分から五〇分ころまでの間に、掃除の過程でエレベーターホールを通っているが、本件バッグに気付いていないこと、原判決が依拠する真田証言(原審第六五回公判調書、当審第三四回公判)に言うバッグは本件バッグと色、形状ともに異なり本件バッグではないこと、真田と同じ職場に勤務する原審証人大原公子は、当日午前八時三〇分ころから四五分過ぎころまでに自治会館にテキストを運ぶため本庁舎一階エレベーターホールを二、三回往復したが、爆発地点にバッグがあったか否か気付かなかったと供述している(原審第九五回公判調書)こと、結局、現場で本件バッグを目撃したのは、爆発直前に目撃した石沢徳四郎だけである(石沢の検察官に対する供述調書二通)ことなどをあげる。
そこで案ずるに、前掲七の2、3に検討したとおり、関係証拠によれば、当日午前八時五分か一〇分ころ、掃除婦の森木ミヨノと向井秀子がエレベーターの前を通ったときには、エレベーターホールに殆ど人影はなく、エレベーターホールには本件バッグがまだ置かれていなかったことは確かであると認められる。しかし、次に右森木がダストカートを道民ホールから郵便局の前の荷物用エレベーターのところまで運ぶため、エレベーターホールを通ったときには(森木の検察官に対する供述調書によれば、午前八時四五分ころという。)、途中エレベーターホールの灰皿のごみを片付けたが、その日の掃除がいつもより遅れ気味であったため(アルバイトの掃除婦が欠勤したことによる。)、気が急いて夢中で作業しており、同所の床の様子には気付かなかったし、また、そのころには、エレベーターホールにだいぶ人の数も増えてきていたので、たとえ床にバッグが置いてあっても見えなかったかもしれないというのであり、これと相前後して(前叙のとおり、午前八時四〇分すぎから五〇分ころの間と認められる。)、エレベーターホールを通った右向井も、当時エレベーターホールは人で一杯であったと言い、本件バッグが置かれていたか否か気付かなかったというのである。したがって、このように見てくると、午前八時四〇分から五〇分ころの時点で、右森木と向井の両名がいずれもエレベーターホールの床に本件バッグが置いてあるのに気付かなかったこと、講習会の準備のため午前八時三〇分ころ登庁し、道庁本庁舎八階から自治会館まで講習用テキストを運ぶため一階エレベーターホールを数回往復した前記大原公子が、本件バッグに気付かなかったことなどの事実から直ちに、当時、未だ本件バッグがエレベーターホールに置かれていなかったと断定することはできないと言わなければならない。
そして、前掲七の2、3において検討したとおり、本件当時は、午前八時二〇分ころから午前九時ころまでの間、一階エレベーターホールの警備が行われていなかったたこと(本件は周到な計画のもとに実行されたと認められるのであって、このような道庁本庁舎一階ホールの警備が手薄な状況は、下見などにより当然犯人の承知するところであったと思われる。)、前記飯塚と真田が、当日午前八時四〇分ころ相前後してエレベーターホールのほぼ爆心位置付近に置かれているバッグないしバッグらしい物を相次いで目撃していること(右両名の目撃した物の形態、色など、その記述に齟齬があるが、数分という短い時間に別異の物がかわるがわる殆ど同じ場所に置かれたとは考え難い。)なども併せ考えると、本件爆発物の入れられたバッグがエレベーターホールに置かれたのは、前叙のとおり、午前八時二〇分ころから四〇分ころまでの時間帯(それも、右真田らの目撃時刻などから、右時間帯の後半であった可能性が強い。)の間であったと思われる。
所論は、あまり長い時間バッグをエレベーターホールに置いておくことは怪しまれて未然に処理される虞れがあるから、できるだけ爆発予定時刻に接近した時刻に設置したとみるのが相当であり、その意味からも、午前八時五〇分以降に、人込みに紛れて設置された筈であると主張するが、午前八時五〇分以降の時間帯は、午前九時の出勤時刻に合わせて出勤してきた道庁職員や外来者でエレベーターホールは混雑しているため、爆発物入りのバッグを設置する際、多数の者に顔をさらすことになって犯人特定の手掛かりとなる虞れがあり、かえって右時間帯より以前に設置して目立たないように立ち去る方がより安全であるともいえるのであって、本件において、所論のような見方が妥当とするとは言いがたいと思われる。
このように検討すると、本件爆発物の設置時間は、最大限幅を持たせても午前八時五分ころから午前八時四五分ころまでの間であるとする原判決の認定が誤りであるとはいえないことが明らかであって、所論は容れ難いと言うべきである。
(二) 甲野証言の信用性について
本件爆発物の運搬及び設置に被告人が直接関わったことを推認させる証拠としては、原審及び当審における甲野太郎の目撃証言があるのみであるが、所論は、甲野証言には多くの予盾があるとして、その信用性、特に同証人が目撃した二人連れと本件爆破犯人の結び付き、右二人連れのうちのAと被告人との結び付きを否定するとともに、原判決が、甲野証言の信用性を認め、同証人の目撃したAが被告人であることは疑いを容れないと結論する点を論難する(弁護人趣意・第一章第四の四、被告人趣意・「はじめに」の項の七、第三の2)。
甲野証言の信用性については、前掲七の1で検討したが、所論にかんがみ、なお検討を加える。
(1) 所論は、本件爆発物は午前八時五〇分以降に設置されたものであるから、甲野が午前八時二〇分すぎころ道庁構内で目撃した二人連れ(AとB)は本件爆破の犯人ではあり得ないし、もし、右の二人連れが犯人であるとするならば、犯人の心理として、なるべく他人の印象に残らないように心がける筈であるのに、大きな紙袋を携帯し、通り道でない道庁内の駐車場を二人連れだって、ぴったり寄り添って歩いたうえ、一通行人にすぎない甲野と擦れ違うとき睨みつけるなど、殊更に目立つ行動をしたことは不自然であり、その行動の態様からみて、右二人連れは犯人とは認め難い旨主張する。
しかしながら、本件爆発物の設置が午前八時五〇分以降におこなわれたことを前提とする所論は、前記設置時間の検討の結果に徴して、容れ難いことが明らかである。
すなわち、先に前掲七で検討したが、本件爆発物が設置されたのは、午前八時二〇分ころから同八時四〇分ころまでの時間帯であり、甲野が道庁西玄関に入る二人連れを目撃したのもほぼそのころであると推定されるから、両者の間に時間的隔たりは認められない。
所論は、本件バッグの設置は、周囲に不審に思われないように、予定爆発時刻にできるだけ近く、午前八時五〇分以降、出勤者が一番多い時間帯をねらって、人込みに紛れて行われたとみるのが合理的であるとし、時限装置の正確性などからしても爆発予定時刻の五分ないし一〇分前に設置すれば、犯人の身の安全も十分確保できるなどと主張するが、これが一つの考え方であるとしても、先に述べたように、エレベーターホールが混む時間帯は、それだけエレベーターを待つ人に顔を見られて覚えられ、あるいは挙動を怪しまれて、発覚の契機となる危険もまた大きいのであるから、必ずしも所論が正しく、先の認定が不合理であることにはならないと言わなければならない。
また、甲野証言から認められる二人連れの行動は、所論が指摘するほど目立つ行動とも言いがたい。甲野にとって右二人連れが印象に残ったのは、道庁西側の歩道から石塀越しに問題の二人連れを見かけた際、自分も一旦は道庁内の交通公社へ航空券を買いに行こうと思っていたこともあって、同人らが道庁西玄関から入るのを何気なく見届け、さらに気が変わって後戻る際に、たまたま、その同じ二人連れが西玄関から出て来るのを再び見たうえ、擦れ違う時にそのうちの一人と目があって睨みつけられたと感じたという経験をしたからであって、二人連れに特段目立った行動があったわけではない。現に、右の二人連れを見かけたであろう者は他にも道庁舎の内外にいたと思われるのに、爆捜本部の努力にもかかわらず、甲野の他に有力な目撃者を見付けだすことができなかったことは、捜査関係者の原審証言に明らかである。
(2) 所論は、甲野が目撃したAと被告人とは同一人物ではないと主張し、その理由として、原判決は甲野証言が信用できる理由として、証言が具体的かつ詳細で、臨場感に富み、作為を感じさせないことを挙げるが、これらの点は、そのまま証言の信用性を基礎づけるものとは言いがたく、一般に、同一性識別に関する証言は間違いが多く、信用の度合いは低いのであって、特に本件においては目撃から証言まで三年九か月以上の時日の経過があることを考慮すると、具体的かつ詳細に証言したことは、かえって不自然であり、甲野が何度も現場に赴いて、目撃状況を再現していることなどを考えると、甲野証言は目撃時の記憶をありのまま供述したのではないと疑うに十分であり、しかも、甲野証言は、Aと被告人が同一人物であるとまでは断定していないこと、原判決は、甲野証言が信用できる理由として、甲野の原初供述に基づく司法警察員に対する昭和五一年四月一〇日付供述調書、同日渋木摩早子が作成したイラストのAの容貌、体格、着衣等に関する各描写及び甲野証言と被告人を対比すると、その特徴が符合するというが、甲野の右調書、イラストと甲野証言との間にAの特徴描写のうえで、大きい食い違いがあるのみならず、これらがAの特徴として描写する容貌、体格、着衣等と被告人のそれが相異なること、甲野証言の弾劾証拠として提出された昭和五一年四月一〇日付供述調書の本文と訂正前の添付図面によれば、道庁西玄関から出てきたときの、AとBの位置は、向かって右がB、左がAであり、西門のあたりでは、Aがやや先行していて、Bが甲野を睨んだというが、甲野証言によれば、西玄関から出てきたとき向かって右がA、左がBであり、西門ではAがやや先行していて、そのAが甲野を凄い形相で睨んだ、といっており、重大な食い違いがあること、甲野は、被告人に対し反感を抱いており、検察官に迎合して内容虚偽の証言をおこなったこと、などをあげる。
そこで、検討するに、所論指摘のように、甲野は、初めて被告人を警察署で見せられた直後に作成された司法警察員に対する昭和五一年八月一八日付供述調書以来、当審証言に至るまで、本件当日目撃したAと被告人とが同一人物であると断定してはいないが、これは、目撃以来相当の時日を経ていることからくる記憶違いを慮り、断定することを憚ったためと思われる。
所論は、同一性識別に関する証言の証拠価値は、信用できるか、全く信用できないかのいずれかであって、その中間はあり得ず、目撃時の記憶をありのまま供述したとは思えない甲野証言は信用できないと主張するのであるが、同一性識別証言であっても、必ずしもその信用性を所論のように二者択一的に取り扱うべきものではない。既に検討したとおり、甲野の原初記憶と原審証言時の記憶との間には、時日の経過などのために不可避的に変容が生じ、証言にあたっては説明、表現が過剰になるなど、原初記憶がすべてありのまま的確に供述されたとは言いがたく、甲野証言がすべての点でそのまま信用できるとは言い難いが、少なくともその基本的な部分、すなわち、「本件当日の朝(午前八時一五分ころから四〇分ころまでの時間帯の間であったと推認されることは先に検討した。)、被告人と非常によく似た感じの男Aが本件爆発物を収納したバッグに似た色合いの布製バッグを携帯して、連れの男と道庁西玄関から入り、間もなく手ぶらで出てきたのを目撃した」という部分は、甲野の最初の目撃供述である司法警察員に対する昭和五一年四月一〇付供述調書以来、当審証言まで一貫していて、反対尋問にも動揺しないのであって、右事実にその余の証拠を総合することによって、甲野の目撃したAが本件爆発物を設置した犯人であることを認定することは、十分可能であるというべきである。
所論は、昭和五一年四月一〇日に根室市で甲野から事情聴取がおこなわれ、司法警察員に対する供述調書と不審者のイラストが作成されたが、その際、甲野が不審者の特徴として述べたことと、同人が原、当審で証言するところが齟齬すると主張し、延いては、甲野証言は信用できないと主張する。
しかしながら、一般に、人の容貌の特徴を口頭で具体的に説明することは、かなり困難なことであり、先にも述べたように、目撃から時日を経ていればなおさらのことである。人の容貌などは、多分に感覚的に記憶に印象されるから、所論指摘のように、「目が細くてするどい」のであれば、「優しそうな顔」の印象が残ることはありえない、などという理詰めの議論は、必ずしも妥当するとは思われない。体格ががっちりしているか、きゃしゃか、なども着衣の具合や、見方によって感じかたが変わりうるのであって、これらの表現の齟齬をもって直ちに甲野証言の信用性にかかわるものとするのは、性急に急ぎる。
身長について、右甲野がAの推定身長として述べた数値が被告人の実際の身長より低いことは所論指摘のとおりであるが、甲野は、「Aの方が自分よりもやや背が高かった」旨終始述べているのであって、所論指摘の身長の目測数値よりもこの点に注目すべきである。甲野の身長と被告人のそれとの差が約五センチメートル程度でしかないことを考慮すると、Aの身長の目測値の点は、甲野証言の信用性に影響を及ぼす程の事柄とは考え難い。
所論は、甲野が取調官に述べたA着用のコートの色合い、丈と被告人の着用していたコートのそれは異なるという。しかし、被告人から押収されたコート(原審検一〇六〇、符号二九七)の色は黒と認められるところ、特に黒色の着衣の場合、光線の当たり具合等で濃いグレー系の色合いなどに見えることは、ままあり得るのであり、また、コートの丈についても、長いか短いかは、微妙な表現の問題でもあるから、これが直ちに齟齬とは言い難い。
所論は、道庁西玄関から二人連れが出てきたとき、AとBのいずれが右側にいたか、甲野を睨んだのはAかBか、甲野の原初供述と証言の間に食い違いがあると指摘する。
案ずるに、甲野の司法警察員に対する昭和五一年四月一〇日付供述調書添付の図面2を見ると、青鉛筆書きのA、Bの表示が黒インクのボールペンで訂正され、左右入れ換えられていて、A、Bの位置関係につき本文の記述と不一致を来していることが認められる。この点、甲野の当審証言によれば、調書が作成された際、甲野は二人連れと擦れ違ったときのA、Bの位置関係が間違って逆に書かれていることに気付き、断ったうえで、自分で訂正したというのである(当審第六回公判調書)。ところが、調書作成者である遠藤警部は、後に検察官に指摘されて初めて添付図面が訂正されているのに気付いたといい(当審第四回公判調書)、両者の言い分が食い違うのであるが、この点に関し所論は、検察官のもとで改竄されたのだと主張する。しかし、原判決も指摘するとおり、検察官が意図的に直したのであれば、図面の記載のみ直して本文を直さずに整合しないまま放置するとは考え難いのであって、甲野のいうところを信用して誤りないと思われる。
次に、甲野を睨んだのは、AかBかの点についても、原判決が指摘するとおり、甲野はAとBを常に明確に区別して説明しているところ、BよりAについてその容貌、着衣等の記憶が鮮明であることは、原初供述以来、AとBについてその特徴として挙げている内容を比較すれば、おのずと明らかである。甲野証言のいうとおり、調書の作成に当たった取調官がAとBを取り違えた結果書き損じたものと思われる。
所論は、甲野は被告人に対して反感を持っており、そのため内容虚偽の被告人に不利な証言をしたと主張するが、甲野の当審証言によれば、同人は、昭和四九年ころから、北方領土返還運動に参加し、原審証言後の昭和五五年八月末ころから、北方領土の返還運動関係の特殊法人の仕事に従事していることが認められるが、原審及び当審における各証言に、被告人の主義、主張について反感を抱いているような特段の態度は認められず、殊更に被告人について不利益な証言を行おうとした証跡は、なんら窺うことができない。
(3) 所論は、昭和五一年四月一六日に札幌において作成したとされるモンタージュ写真(Aの男)(原審検一〇五〇、符号二九二)は、同年八月一〇日に被告人が逮捕された後に、被告人の顔写真に似せて作成されたものであるから、右モンタージュ写真と被告人の容貌が似ているのは、むしろ自然であると主張する。
しかしながら、甲野の原審及び当審証言、三波仁作の原審証言(第七五回公判調書)によれば、先に認定したとおり、所論指摘のモンタージュ写真(符号二九二)は昭和五一年四月一六日に道警本部において作成されたものであって、この事実に疑いを差しはさむに足る証拠はない。
所論は、甲野の当時の記憶は希薄で、渋木摩早子が作成したイラストの程度であったから、甲野の説明を聞いて、右イラストとまったく印象の異なる右モンタージュ写真が作れる筈はない、もし当時右モンタージュ写真が作成されていたのであれば、爆捜本部が被告人の写真を入手した同年七月二〇日ころの時点で、被告人に本件の容疑をかけ得た筈であるし、聞き込みに従事した警察官らにも右モンタージュ写真を持たせた筈であるが、その事跡はないなどと主張するが、いずれも所論の根拠として薄弱で、容れ難いといわざるをえない。
右モンタージュ写真は、検察官の主張する程に被告人の容貌に酷似しているとは認められず、もし、所論がいうように、被告人の逮捕後に被告人の顔写真にわざと似せて右モンタージュ写真を作成したのであれば、もっと被告人に似せて作成することも可能であったはずであると思われる。
以上の次第で、所論はいずれも採用できない。
その他、所論にかんがみ、証拠を精査し検討するに、甲野証言の信用性については、これまで検討したとおりであって、所論の主張するところは、いずれも容れ難いと言わなければならない。
6 道庁爆破事件の犯行声明文と被告人との結び付きについて
(一) 道庁爆破事件の犯行声明文の「*」印記号について
所論は、要するに、「*」印記号に関する鑑定書中の金丸、馬路両鑑定は誤りであるにもかかわらず、これを信用し、これら鑑定の結果から被告人と本件犯行声明文との結び付きが証明されたと認定した原判決には事実の誤認がある、というのである(弁護人趣意・第一章第五、被告人趣意・第五)。
そこで検討するに、被告人が本件犯行声明文に記載されたと同様の「*」印記号を常用する習癖があることは、前掲六の1(二)において検討したとおりであるが、原判決は、さらに、「*」印記号に関する鑑定を検討したうえ、本件犯行声明文中の「*」印記号は、「被告人において手書きした蓋然性が極めて大であるというべきであ」り、「被告人が本件声明文を自ら打刻したかどうかはともかく、その作成に濃密に関与したことについては、疑いを容れる余地がない」旨認定している。
原判決が援用する前記鑑定のうち、本件犯行声明文中の「*」印記号の筆跡と被告人との結び付きにつき積極的な金丸、馬路両鑑定は、およそ次のようにいう。
ⅰ 金丸鑑定
金丸吉雄は、大正一四年に札幌師範学校第一部を卒業し、昭和二七年から北海道学芸大学の教授となり、書道の歴史及び実技等を研究し、筆跡鑑定についての研究を重ね、「筆跡鑑定」と題する著書を著し、昭和二年に札幌控訴院において筆跡鑑定に携わって以来、本件鑑定に至るまで約一二〇〇件余の筆跡鑑定に携わってきたもので、文字についてはもちろん、記号についても必ず筆者の個性が出るものであるから、異同識別が可能であるとの立場に立つものであるが、同人の作成した鑑定書は、昭和五一年八月二三日付(以下、「金丸第一鑑定」という。)、昭和五一年一〇月五日付(以下、「金丸第二鑑定」という。)及び昭和五一年一一月一三日付(以下、「金丸第三鑑定」という。)の三通であり、金丸第一鑑定においては、「本件犯行声明文」、「朝鮮人強制連行、強制労働の記録」(原審検六四七、符号一九三)、「被告人作成の履歴書」(原審検九六九、符号二六二)、金丸第二鑑定においては、前記「本件犯行声明文」、前記「朝鮮人強制連行、強制労働の記録」、過激派壊滅作戦」(原審検一一七四、符号三三八)、金丸第三鑑定においては、「被告人作成のメモ一枚」(原審検九七二、符号二六八)、前記、「本件犯行声明文」、前記「朝鮮人強制連行、強制労働の記録」、「被告人作成のメモ一二枚」(原審検六五七、符号二〇三)をそれぞれ資料として鑑定を行った。同人は、これら鑑定資料についてまず総体を観察し、顕微鏡により、造形性、線質、筆順、リズム、筆圧等につき分析したうえで、最後に統合して情感、格調を見るなどの検討を加えて、比較鑑定したものであるところ、第一鑑定については、鑑定資料中の「*」印記号は、いずれも手の作業がこまやかで、精密であり、線が練れている反面、ペンの持ち方に癖があり、肘や手首の関節を使わないで書かれていると推定されることなどを理由に、本件犯行声明文中に記載された「*」印記号と、前記「朝鮮人強制連行、強制労働の記録」に記載された「*」印記号とは、「同一筆跡の疑いが極めて濃厚である」との鑑定結果を出したこと、第二鑑定においては、本件犯行声明文中の「*」印記号と、「朝鮮人強制連行、強制労働の記録」に記載された「*」印記号とが、同一筆跡であることについてさらに確信を強めたが、これらと「過激派壊滅作戦」に記載された「*」印記号とは、筆跡学的に矛盾点が多く、同一筆跡とは認め難いとの結論に達し、さらに、第三鑑定についても、本犯行声明文中の「*」印記号と被告人自筆の「*」印記号とは同一人の筆跡としても矛盾しないとの鑑定結果を出したが、鑑定書中の筆圧及び筆速の点についての判断は、その正確性にやや疑問が残るというのである。
ⅱ 馬路鑑定
馬路晴男は、昭和一二年から旧海軍の軍法会議において文書の鑑定に従事してきたほか、昭和二五年から奈良県警察本部の刑事部鑑識課において文書鑑定に従事したのち、昭和四八年からは自宅で文書鑑定研究所を開き、本件の筆跡鑑定まで約一〇〇〇件以上の鑑定に従事してきたこと、同人としては、文字については作為の余地があるのに反して、記号については比較的作為が少ないため、記号についての異同識別の鑑定の方が容易であるとの立場から、前記「本件犯行声明文」、前記「朝鮮人強制連行、強制労働の記録」、前記「被告人作成のメモ一二枚綴り(原審検六五七、符号二〇三)の一部、前記「被告人作成のメモ一枚」(原審検九七二、符号二六八)に記載されている「*」印記号の異同識別についての鑑定を行ったものである。同人は、実体顕微鏡、拡大検査器、紫外線(ボールペンのインキの成分の異同を調べる。)、斜光線(筆圧のかかった紙面の凹状態を調べる。)等を利用して、各鑑定資料を比較検討したところ、これらの「*」印記号を記載した者は、①記号をつける癖があること、②その中でも、特に「*」印記号を書く癖があること、③行、字の頭に「*」印記号を書く癖があること、④「*」印記号の大きさがだいたい揃っていること、⑤筆順が一致しているものが多いこと(「*」印記号の四本線の中心点付近における重なり方を含む。)、⑥筆速が速いこと(ただし鑑定資料中の本件犯行声明文については不明。)、⑦「*」印記号に丸を付けたものが多いこと(資料二及び三にみられる。)を類似点として挙げるほか、紫外線で見た場合にボールペンのインクの成分が非常に似ているものがあったこと等を総合して、「資料一ないし同四の各「*」印記号は、その書かれている周囲の状況や、書きぶりなどからみて、同一人のものであるとするのが妥当であり、特に否定する強硬な条件は見当たらない。」との結論を出したものであり、右に「特に否定する強硬な条件は見当たらない。」としたのは、「同一人のものであるとするのが妥当である」との部分を強調する趣旨であり、対照資料が指紋検出のための薬液に浸されて書き込みのインクが滲んでいて、鑑定の精度が落ちることを考慮し、各鑑定資料に記載された「*」印記号が同一人によって記載された確率は、八〇ないし九〇パーセントであるというのである。
これに対して、木村筆跡鑑定、長野鑑定は、次のように言う。
ⅲ 木村筆跡鑑定
木村英一は、道警本部犯罪科学研究所の技術吏員であり、筆跡鑑定の職務を担当しているものであるが(昭和五七年までの二〇年間に、一五〇ないし二〇〇件の鑑定依頼を受けたうち、八割までが筆跡鑑定である。)、当初、科学警察研究所において講習を受け、その後、鑑識科学研究発表会文書部会、道内の犯罪科学研究発表会等に参加し、あるいは発表の機会を得ていたものであり、筆跡の希少性(希少性の程度、希少率)、筆跡の常同性(恒常性)を調査し、それが個人内変動の範囲内にあるか否か等を総合考慮して筆跡鑑定をおこなうとの基本的方針を持つが、前記「被告人作成のメモ」(一二枚綴りのもの)、前記「朝鮮人強制連行、強制労働の記録」、前記「北方ジャーナル」(一九七五年六月号)、前記「本件犯行声明文」、前記「過激派壊滅作戦」、前記「被告人作成のメモ一枚」中に記載されている「*」印記号の筆跡異同について鑑定を行ったところ、「*」印記号自体「記号一覧」(印刷事典、写真植字記号)等にも記載がなく、また、筆記されたものを目にすることも少ないのであるが、一般的に「*」印記号の造形性に何らかの希少性が現れるか調べるため、北海道警察学校の生徒一〇〇名(一八歳から二〇歳くらいまでの男子八四名及び女子一六名)にボールペンで「*」印記号を書かせたところ、相対長(各線の相対の長さの比較)、線形態(各線の形態)、構成(縦線と横線との交点に対する左、右両斜線の位置)、渋滞の有無(各線を拡大投影して渋滞の有無を検討した)、筆順、大きさのうち、線形態に僅かに個人差が認められ、筆順についてもグループ分け程度は可能ではあるが、他の項目については個人内変動が大きくて基準になり得ないというである。そして、鑑定資料について、「*」印記号を検討しても相対長、大きさ、構成及び渋滞の有無には、ばらつきが多くて、これらによる筆跡異同識別はできず、線形態については左斜線を除いては類似し、筆順の判定可能なものについてみるとすべて同じ筆順であったが、これらの点のみから同一人の筆跡であると積極的に判断することはできないので、結局、類似の傾向を示すとはいえるが、同一人の筆跡であるとは判断できなかったというのである。
ⅳ 長野鑑定
同鑑定人は、昭和二五年警視庁科学警察研究所の文書研究室に入り、昭和五一年六月定年退職するまで、文書の鑑定及びその研究を続けてきたもので、筆跡鑑定についても数多く経験しているが、記号に関する鑑定は、「○」印について経験があるものの、「*」印記号については今回が初めてであること、鑑定資料として、木村筆跡鑑定とほぼ同様の資料(ただし「北方ジャーナル」を除く。)の提供を受けて、筆跡鑑定におけると同様の手法によって検討したところ、「*」印記号の使用頻度等を知るため、鑑定人の知人等、男性二二四名(二〇歳以上四〇歳未満の者)に、「*」印記号を含む類似の記号五個を記載した調査用紙に、その使用頻度を書かせるなどして調査したところ、「*」印記号を使用する者が一般に少なく、特に「*」印記号をしばしば使用する者にはやや希少性があること、「*」印記号の右上から左斜め下の線が最も長く書かれる傾向が見受けられること(ただし、鑑定資料の被告人作成のメモ(一二枚綴りのもの)を除く。)、縦線が交点の上方に比べて下方が長く書かれていること(ただし、鑑定資料の被告人作成のメモ(一枚のもの)を除く。)等に、その特徴点をみることができたが、その余の検査項目については個人内変動が大きいため、いずれも筆跡の異同識別の要点とはなり得ないというのである。
このように、本件声明文には、僅か三個の「*」印記号の記載があるに過ぎないから、その書き癖を十分把握できるか疑問があるうえ、右金丸、馬路両鑑定は、「*」印記号を慣用することの「希少性」について十分配慮したか、馬路鑑定は本件犯行声明文とそれ以外の各鑑定資料との間の異同識別を十分意識しておこなったかなどの点について疑問があり、他方、木村筆跡鑑定及び長野鑑定が「希少性」判断の資料とした対象者の選定が適切であったか等について疑問が残り、これらの鑑定結果からは、にわかに明確な結論を出すことはできないというほかない。
しかしながら、前掲六の1(二)にみたとおり、被告人には、本件犯行声明文中に記載されたと同様の「*」印記号を常用する習癖があるところ、先に検討したいずれの鑑定とも本件犯行声明文の「*」印記号と被告人の書いた「*」印記号とが異筆であることを示唆するものではなく、かえって、金丸鑑定及び馬路鑑定が筆跡の同一性について肯定的な鑑定結果を出すに至った根拠のうち、右犯行声明文の「*」印記号の筆順と被告人の書いた「*」印記号の筆順がおおよそ同一のものが多いと認められること、本件犯行声明文と対照資料の「*」印記号の大きさがだいたい揃っていること、いずれの「*」印記号とも字、行の頭に記入されていることなどの共通性が認められることは、資料の客観的観察の結果として、肯認することができ、これらの事実に徴すると、本件犯行声明文に記載された「*」印記号は、被告人が記載したことが明らかなその余の「*」印記号と、類似の傾向を有すると言うことができる。しかも、被告人が所持していたと認められる前記書籍等に記入されている「*」印記号は、いずれも黒色インクのボールペンで記入されているところ、本件犯行声明文中の「*」印記号もまた黒色インクのボールペンで記入されており、木村英一作成の昭和五一年一二月六日付鑑定書(原審検一一六二)及び同証人の原審証言(第八七回公判調書)によれば、本件犯行声明文中の「*」印記号を記入したボールペンのインク及び前記「朝鮮人強制連行、強制労働の記録」中に被告人が「*」印記号を記入したボールペンのインクは、被告人が所持していたと認められるボールペン中芯(原審検一一五八、符号三三七)のインクと成分が同種であると推認されるというのである。
これらの点を併せ考えると、被告人が本件犯行声明文の三個「*」印記号を記入した蓋然性を相当高く認めることができる。したがって、これまで検討してきたその余の状況証拠も考慮すると、原判決が、被告人が本件犯行声明文の作成に「濃密に関与した」と判示したことをもって、事実の誤認があるとはいえない。所論は採用することができない。
(二) 道庁爆破事件及び道警爆破事件の各犯行声明文を打刻したテープライターの片仮名文字盤の同一性について
所論は、道庁爆破事件及び道警爆破事件の各犯行声明文を打刻したテープライター文字盤の同一性に関する木村英一の鑑定(原審検八八九、当審検七九、一八五)は、両爆破事件の各犯行声明文の片仮名打刻文字の濁点に共通する特徴点が認められることなどを理由に、両声明文ともダイモジャパン・リミテッド社の金型キャビティ1から製造された片仮名文字盤を用いて打刻されたと結論するが、(1)打刻された「ヨ」の字の縦線を基準に考察すると、その縦線の出方が悪く「ミ」に見えるのは金型キャビティ2から製造された片仮名文字盤の特徴であり、木村鑑定の結論とは異なり、両犯行声明文、特に道警爆破事件の犯行声明文はキャビティ2の片仮名文字盤を用いて打刻したと認められる、(2)右木村鑑定は、対照資料に偏りがあり、共通特徴点の有無の判定に客観性がないなどの欠陥があるから、信頼できないなどと主張する(最終弁論第四の三)。
そこで検討するに、(1)木村英一作成の鑑定書(原審検八八九、一〇〇一、当審検七九、一八五)及び同証人の原審証言(第四六回、第四八回各公判調書)及び当審証言(第二〇回、第二一回各公判調書、第二九回公判)によれば、両爆破事件の各犯行声明文の打刻文字の濁点中には、濁点の左点に特徴的な黒色斑点が出現するという共通する特徴が認められ、これはいずれもダイモジャパン・リミテッド社の金型キャビティ1から製造された片仮名文字盤に特有のものであることが判明したが、同人は、両爆破事件の各犯行声明文に共通する片仮名打刻文字を実体顕微鏡で観察するとともに、それらの拡大写真を作成し、共通する特徴点を探し、他方、昭和四八年一一月ころから同四九年四月にかけて製造されたダイモジャパン・リミテッド社製の片仮名文字盤(キャビティ1)一〇〇枚及び各種打刻機二八台を用い、合計約八四〇〇〇個の対照資料を作成して、実体顕微鏡により検査するなどしたところ、前掲六の2(一)に述べたとおりの結果が得られ、結局、右両犯行声明文は、いずれも前記ダイモジャパン・リミテッド社のキャビティ1により製造された片仮名文字盤のうちの特定の文字盤で打刻された可能性が強いとの結論に達した、というのである。
右鑑定は、資料の各打刻文字を実体顕微鏡で拡大し、さらに拡大写真を作成し、比較対照して慎重にその特徴点を探ったもので、対照に用いた資料も豊富であり、検査方法には科学的客観性が認められ、その結果は措信するに足るものと思料される。
ところで、前記ダイモジャパン・リミテッド社の社員である証人室田宏一は、当審で(第二八回公判)、先に掲げた両爆破事件の犯行声明文の打刻文字に共通する特徴点の一つである「ヨ」の文字の縦画が出にくくて、「ミ」の字のように見える欠陥は、キャビティ2の金型で製造された片仮名文字盤のみであり、昭和四九年三月ころ右金型を改修をした後は、殆どこの点の苦情が寄せられなくなった旨、所論に沿う証言をする。しかしながら、前記木村が、「ヨ」の字について実施した実験結果によれば、「ヨ」の字の縦画の白化が劣悪であるという特徴的欠陥は、キャビティ1、2いずれの金型によって製造された片仮名文字盤についても存在し、ただその発生率はキャビティ2の金型から製造された片仮名文字盤の方が高いとの結論を得たというのであり、室田宏一の司法警察員に対する供述調書(当審検二三一)でも、キャビテイ1、2いずれの金型で製造された片仮名文字盤についても欠陥が存在したが、キャビティ2の金型の方が悪かったから同金型のみ改修した旨記載されており、これらの証拠に照らし、前記の室田証言をそのまま措信することはできないと言わなければならない。
(2)また、木村鑑定が、道警爆破事件の犯行声明文がだされた昭和五〇年七月までに製造された総ての片仮名文字盤を対象に検討したものではないことは所論指摘のとおりであるが(片仮名文字盤が広く商品として販売されていることを考えると、そのような検討は、事実上、不可能であると認められる。)、しかし、同鑑定人の当審証言によれば、所論指摘の点とともに、鑑定の対象物が片仮名文字盤そのものではなく、片仮名文字盤によってテープ上に打刻印象された文字であり、その意味で対象が間接的であることなども考慮した上で、鑑定結果としては、右両犯行声明文の打刻文字はいずれもダイモジャパン・リミテッド社製の片仮名文字盤(キャビティ1)のうち、特定の文字盤により打刻された「可能性が強い」旨控え目に表現したことが認められるのであって、その鑑定結果は、右の限度で十分措信できると思料される。
そして、これをその余の状況証拠と併せみると、被告人が本件道庁爆破事件の犯行声明文の作成に関与したことを推認することができるというべきである。所論がいずれも容れ難いことは、明らかである。
なお、所論は、被告人は道警爆破事件に関与していないし、テープライターを持っていなかった、両爆破事件の各犯行声明文は表記の仕方に異なる点があり、同一人物が作成したものではないなどと主張する。しかしながら、被告人が道警爆破事件の犯行自体に関与したか否かはともかく、被告人がテープライターを入手していなかったとは言いきれないし、右両犯行声明文については、打刻したテープライターの片仮名文字盤の特徴点にとどまらず、その内容、作成名義、体裁、置き場所の告知方法、置き場所など、共通し、類似する点が多いことは、前掲六の3に指摘したとおりであり、両者の表記の仕方に違いがあるからといって、同一人物が関与していないとは言えず、所論の主張するところは、いずれも、右木村鑑定の結果を左右するものとは認め難い。
(三) 道警爆破事件の通告電話の音声の声紋鑑定について
所論は、鈴木隆雄の声紋に関する各鑑定は、声紋鑑定の科学性が専門家の間で広く承認されるに至っていないこと、音声のフォルマントが万人不同(希少性)、生涯不変(常同性)であることを前提にするが、この前提自体の成立さを示すデータが示されてはいないこと、フォルマントの比較の際の異同識別に問題があり、かつ識別の客観的判定基準が明らかでないこと、鑑定資料の量及び質の両面で問題があること、などからいずれも証拠能力がなく、かつ証明力もないというのである(最終弁論第四の二)。
そこで検討するに、関係証拠によれば、声紋鑑定の手法は、音声を発するために必要な人体の諸器官の形状及びその使用形態が個人によってそれぞれ異なることに着目し、人の音声をサウンドスペクトログラフを用いて周波数分析し、これを模様化して静止画像(これをサウンドスペクトログラムまたは声紋という。)とし、その模様に現れる人の音声中の特別な周波数成分(これをフォルマントという。)の位置、強弱(模様の濃淡になって現れる。)を比較対照することによって発声者の個人識別を行うものであるところ、この声紋を比較する方法は、第二次世界大戦のころ、主としてアメリカのベル研究所で開発されたものであるが、戦後さらに研究が進められ、学界、法曹界において、その実用性、信用性が相当程度承認されるに至っていることが認められる。もっとも、アメリカにおいても、音声識別を取り扱う者は適切な訓練と試験及び資格を受けて、初めて専門的な鑑定証言をなすべきものとの考えのもとに、比較的短期間ではあるが、学科理論と実際的な技術訓練が行われ、専門家による識別が前提とされているが、音声資料の状態が良好であり、かつ比較する音声資料の間で、聴覚的に類似性が認められるとともに、スペクトログラム上でも類似性が認められる場合には、同一人の音声と識別することができ、少なくとも一〇個以上の音について右の点につき十分な類似性が認められる場合は、積極的に同一という識別ができるというのである。
そして、わが国においても、警察庁科学警察研究所が右鈴木らを中心に、ベル研究所の研究成果をもとに、さらに基礎的な研究を進め、昭和四〇年ころから実用化のめどが立つようになったというのであるが、前記科学警察研究所のほかには、研究している機関は僅かで、研究者の層も薄く、したがって鑑定実績も少数特定の者に集中する傾向があり、再鑑定による追試あるいは批判的検討を求めることが、実際上困難である憾みがあるが、右鈴木の当審証言によれば、同人は、昭和三六年から同研究所に勤務して声紋の研究をかさね、これまで声紋鑑定に関する多数の研究論文を発表しており、同人が依頼された声紋鑑定の数は約一八〇件に及ぶというのである。
同人は、本件鑑定において、各音声資料中の音声に、「ロッカー」あるいは「ナンカー」とあるところから「カー」を、「ジューイチジ」から「ジュー」、「ハチジ」から「ハチ」及び「ケーサツノホウデ」から「ケーサツ」等の共通発声音を比較対象に選定し、サウンドスペクトログラフで周波数分析をして、これを声紋(サウンドスペクトログラム)にとり、声紋上の特別な周波数成分(フォルマント)を比較分析したのであるが、その検討に当たって、サウンドスペクトログラフ等の機器はすべて正常に作動し、各鑑定資料についての録音条件、録音状態、ピッチ(声の高低)等も慎重に検討していること、右分析の結果は、更に詳細にセクション分析の方法(音声のある部分につき微小な時間(一〇〇〇分の四〇秒)の周波数を分析してスペクトル図化する方法)によって検討し、確認している(鈴木第四鑑定、当審検二一八、証人鈴木隆雄の当審証言、第三〇回公判)ことが、それぞれ認められる。
このように、関係証拠によれば、声紋鑑定は、その科学的信頼性の点で問題の余地がなくはないにしても、既に相当数の鑑定例を重ね(科学警察研究所が実際の事件に即して受諾した鑑定例のみでも約四三〇件に及ぶとされる。)、捜査等に活用されて相当の成果をおさめている状況にあるのみならず、刑事裁判の証拠として採用された事例もあるのであって、音声分析の的確な知識と相当の経験を具えた検査者が、性能、作動状況等に問題のない装置を使用して声紋等を検査し、誠実に検討した経過及び結果を記載したと認められる書面は、刑事訴訟法三二一条四項所定の鑑定書に該当するというべきであり、作成者鈴木隆雄が当審証人としてその作成経過等について証言した第一、第二及び第四鑑定(当審検二一六、八八及び二一八)は、右法条により証拠能力を認めることができるというべきである。所論は、声紋鑑定は音声のフォルマントが万人不同(希少性)、生涯不変(常同性)であることを前提とするところ、この前提自体の確かさを首肯するに足るデータが示されていないと主張するが、本件においては、昭和五〇年七月一九日の道警爆破事件の際の通告電話の送話者の音声と、昭和五一年九月の捜査官による取調べの際の被告人の音声を比較対照したのであるから、一年余りの期間に、成人である被告人の音声が大きく変化するとは考え難く、生涯不変の前提は特段問題とするに足りないと思料されるし、また万人不同の前提が明確にされていないことの故をもって、証拠能力を否定することは相当でないといわなければならない。
さらに所論は、右鑑定については鑑定資料の質に問題があるのみならず、比較の対象が僅か三個の共通発音にすぎないこと、音声の個人内変動が検討されていないことなどから、本件各声紋鑑定には信用性がない、というのである。
そこで、検討するに、本件声紋鑑定は、犯行声明文の所在を通告する三回の電話の送話者の音声をカセットテープ及び録音テープ(商標名アンサーホン)に録音したものと、捜査官の取調べを受けた際の被告人の音声をマイクロフォンをとおしてカセットテープに録音したものとの比較対照に重点が置かれ、右録音した音声の周波数がスペクトログラフの静止画像の声紋の状態で比較されるところ、本件においては鑑定資料の録音条件がそれぞれ異なるため、その比較対照に際して補正が必要であったこと、声紋比較の対象とする発声音は可及的に多いことが望ましいが、本件では録音が比較的鮮明でかつ最も特徴が現れ、しかも各資料に共通する発声音の個所を選んだため、三個のみ比較の対象としたこと、その他前述した声紋研究の現状等にかんがみると、その信用性の評価には慎重でなければならないが、右鈴木の証言によれば、鑑定の結果、「第一回及び第二回の通告電話の送話者の音声と被告人の音声とは、同一人の音声である可能性が極めて大きい」、「第三回の通告電話の送話者の音声と被告人の音声とは、同一人の音声である可能性が大きい」と判定したが、判定基準の段階として、前者は「同一人の音声であると認められる」という判定に次ぎ、九〇ないし九五パーセントの確率で同一人の音声と認めた場合であって、これは残りの五ないし一〇パーセントについて別人の音声の可能性が残るという趣旨ではなく、鑑定資料の録音条件の違いなどを考慮して控え目な表現にとどめたというのであり、そして、後者については、八〇ないし九〇パーセントの確率で同一人と認められる場合であって、鑑定資料の録音条件の違いに加えて、第三回の通告電話の録音状態があまりよくないことを考慮した表現であるが、被告人とは別人の音声であることを示す要素は全くないというのである(当審証人鈴木隆雄の証言、第二二回、第二三回各公判調書、当審第三〇回公判)。
これらの諸事情を総合し、さらに当裁判所による前記通告電話の録音テープの再生聴取の結果とも併せ考えると、道警爆破事件の犯行声明文の通告電話の送話者の音声は、被告人の音声と類似していると認められ、このことは、被告人が道警爆破事件の犯行声明文の作成に関与したこと、延いては、道庁爆破事件の犯行声明文の作成に関与したことを推認させる状況証拠であると認められる。
以上の次第で、所論は、いずれも容れ難いと言わなければならない。
(四) 道警爆破事件の通告電話のパルス音について
所論は、電話のパルス音に関する鈴木第三鑑定(当審検二三四)は、発信局が市内か市外か程度の推定に役立つにすぎず、これによって発信局ないし局番まで特定できるものではない、というのである(最終弁論第四の二)。
そこで検討すると、前掲六の2(二)に検討したとおり、鈴木第三鑑定は、昭和五〇年七月一九日にかけられた道警爆破事件に関する犯行声明文の所在通告の電話の録音を用いて、その通話終了時のパルス音と札幌市内及びその近郊から電話をかけた場合の通話終了時のパルス音について比較検討したところ、第一回目の道警本部に対する通告電話(午後四時二七分ころ)のパルス音は、D一〇型電子交換機を使用する電話局のものと認められること、そして、当時、右型式の交換機を使用していた電話局は、札幌大通電報電話局及び札幌南電報電話局であり、これらの電話局の受け持つ電話機からかけられたものと推察され、他方、第三回目の朝日新聞北海道支局に対する通告電話(午後六時二五分ころ)のパルス音は、C四五型交換機を使用している札幌市五一一局、五二一局のパルス音と類似しており、被告人の当時の勤務先であるクラブ「重役室」に設置された×××局××××番の電話の通話終了時のパルス音とも似ているというのである(鈴木の当審証言、第三〇回公判)。
これらの鑑定結果は、使用された電話機の発信局の推定に資するにすぎず、それ以上のものではないことは、鈴木自身が認めている。しかし、右の鑑定結果から、道警爆破事件の犯行声明文の所在につき通告電話がかけられた電話機の設置地域がある程度は推定することができ、その送話者がクラブ「重役室」、あるいはその近辺に設置されている電話機から右通告電話をかけたとしても、録音された通告電話のパルス音から推定されるところと矛盾しないということは言えるのであって、この限りで、被告人が道警爆破事件の犯行声明文の通告電話をかけた旨の推認を支持する状況証拠であるということができる。
(五) 道警爆破事件の通告電話、犯行声明文に関する証拠排除の主張について
所論は、(1)道警爆破事件の通告電話、犯行声明文に関する検察官の立証に関し、当審検七九、八〇、八二、八三、八四、八八、八九、九〇、一一七、一一八、一一九、一七四、一七五、一八二、一八四、一八五、一八六、二一六、二一八、二二九、二三四の各証拠は、検察官が起訴されていない道警爆破事件の証拠を利用して、本件道庁爆破事件の事実認定について裁判所に予断を抱かせ、実質的に別事件の処罰を目的とするもので、このような証拠を採用することは、不告不理の原則及び二重の危険の禁止に反して違憲、違法であり、(2)公訴事実どおりの犯罪事実を認定した第一審の有罪判決に対して被告人のみ控訴した場合には、控訴審の構造上、検察官は被告人の控訴審での新しい立証に対してのみ反証を挙げることが許されるのであって、原判決、検察官の答弁書とも触れていない事実に関して立証することは許されないから、前掲各証拠の採用は違法であり、証拠から排除すべきであると主張する(最終弁論第四の一)。
検討するに、(1)所論指摘の証拠は、検察官において、本件道庁爆破事件の約半年前発生した道警爆破事件の犯行声明文(当審検八〇、符号三五五)が、道庁爆破事件の犯行声明文と同様に片仮名文字のテープライターで打刻されたテープを台紙に貼付したものであること、右両犯行声明文が同一、特定の片仮名文字盤を用いてテープライターで打刻されたものと推認されることから、両犯行声明文の作成に同一人物の関与が窺われること、他方、右道警爆破事件の犯行声明文の所在を通告する電話の音声が録音されていたので、この録音を利用して右通告電話の送話者の音声と被告人の音声とを比較すると、両者その声紋の一致がみられること、そこで、これらの事実から、道警爆破事件の犯行声明文の作成、延いては道庁爆破事件の犯行声明文の作成にも被告人が関与したことを、それぞれ立証しようとするものと認められる。
右の立証は、道警爆破事件に密接な証拠である道警爆破事件の犯行声明文とその所在を通告する電話の送話者の音声の録音を用いて、本件事件の犯行声明文と被告人との間を架橋しようとするものであるが、直接証拠の殆どない本件事件において、許容さるべき合理的な立証活動であると言うべきである。
右の立証命題が証明されると、結果として被告人と道警爆破事件との深い係わりが認められることになるけれども、検察官が、これによって、本件とともに道警爆破事件につき実質上被告人の刑事処罰を求めようとの意図に出たものとは認め難く、また、裁判所に本件事件の審理の上で不当な予断を抱かせようとしたものとも認められないから、所論はその前提を欠くというべきである。
(2) 本件において、事実誤認の主張は、つまるところ、被告人が本件事件の犯人であるとする原判決の認定は誤りであり、被告人は本件に関与していない、ということに尽きるところ、当裁判所は、本件事案の重大性に鑑み、真相を究明するため、関係証拠の多角的検討に努め、検察官から請求された所論指摘の証拠についてもこれを採用したが、検察官の右証拠請求は、所論が事実誤認を主張する原判決の事実認定、とくに、道庁爆破事件の犯行声明文の作成に被告人が関与した旨の事実認定を支持し、補強しようとするものであり、原審段階においても検察官から取調請求がなされたが(原審検一二二二ないし一二三八)、これが却下されたもので(原審第一一五回公判調書)、当裁判所が前記の立証趣旨においてこれらの証拠を採用したことにはなんら違法、不当の廉はなく、この点の所論も容れることができない。
7 被告人の不自然な言動について
所論は、要するに、原判決が、被告人の本件事件当日の行動、警察の捜査についての異常な関心、その他の言動等が不自然、不可解であり、被告人が犯人でなければ到底理解し難いものであって、本件事件の犯人と推認させる事実として看過できないと判示したのは、事実の誤認であるというのである(弁護人趣意・第一章第一、第六、被告人趣意・第六)。
そこで、検討するに、被告人は、生協のテレビで本件事件のニュースを見て帰宅の途中、乙野花子から道庁が爆破されたニュースを話題にされた場合に備えて応対の仕方を考えながら帰った、本件の新聞報道を詳細に知るため、夕刊を買いにでた際、四紙をわざわざ二か所に分けて購入した、後日警察官が間借り人の聞き込みにくることを予測して当日の行動の記憶を残そうとした旨原審公判で供述したが、これは、そのころ行っていた爆弾闘争の準備が発覚すれば、計画が挫折するので、本件事件について乙野花子にあらぬ疑いをかけられることを避け、さらに聞き込みの警察官に不審に思われないようにするために、その対応を考えたものであり、また一か所で多種の新聞を同時に購入して疑われることのないようにしたと弁解するのである。しかしながら、被告人の言うところによれば、被告人は爆弾闘争の準備をしていただけで、攻撃の具体的な目標も定まっていなかったというのであるが、それにしては、被告人の前記の行動は余りに道庁爆破事件を意識しすぎた行動であると言わざるを得ず、不自然であるし、警察官の戸口調査に備えて本件事件当日の行動を記憶に残そうとするのなら、道庁爆破事件の嫌疑をかけられることを慮って、アリバイ主張のために、その前後の行動、立ち寄った店の名称、場所などを銘記しておくべきであるのに、前掲一二の1で検討したとおり、被告人は当日の外出中の行動について極めて曖昧な供述を繰り返しているのであり、また、被告人が道庁爆破事件の捜査の進捗状況に強い関心を抱いていて、雑誌の本件事件に関する特集記事を熟読していたことが窺われるなど、被告人のこのような不自然な行動は、その余の関係証拠と相俟って、被告人が本件事件の犯人であることを窺わせる状況証拠の一つであるということができる。したがって、所論指摘の原判示に事実の誤認は認められず、所論は容れることができない。
8 太田早苗の検察官に対する供述調書謄本の証拠能力と信用性について
所論は、要するに、当裁判所が証拠として採用した太田早苗の検察官に対する各供述調書謄本(当審検一二七ないし一三五及び一三九)は、第三者の供述を内容とする伝聞ないしは再伝聞にわたる部分が多々あり、検察官の誘導と強制により録取された部分もあり、しかも特信性を欠き証拠能力がないにもかかわらず、これを証拠に採用したのは、憲法三七条及び刑事訴訟法三二〇条に違反するのみならず、昭和五〇年六月の東京での会合における話合いの内容など、措信できない点が多いというのである(最終弁論第一)。
そこで検討するに、右の各供述調書謄本の証拠能力については、昭和六一年一二月一八日付の当裁判所の決定において判示したところであるが、右決定によって採用した太田早苗の検察官に対する供述調書謄本の各部分(以下、検察官に対する供述調書謄本のうち採用した部分を指して、単に供述調書謄本という。)は、第三者の供述内容を含んでいるが、そのうち太田が直接聞いた被告人の供述を内容とする点は、いずれも被告人の不利益事実の承認を内容とするものであり(刑事訴訟法三二四条、三二二条一項)、その余の加藤、実方の供述(これらの者が聞いた被告人の供述を含む。)を内容とする点については、これらの者の供述内容が客観的に真実であることの証拠に供するものでなく、これらの者の自然な会話のなかに現れた心情自体を要証事実とし、あるいは、被告人と同志的結び付きが強く、その反日闘争を理解し、被告人が昭和四十九年六月北海道に移り住んで以来逮捕される直前まで密接な連絡を保っていた太田早苗が、本件事件が起こったことを知って、犯人は被告人であると認識した経緯ないしその根拠を明らかにしようとする証拠として採用したものであるから、本件の場合、右の各供述調書謄本は被告人、加藤、実方など第三者の供述を記載内容として含むからといって、これら第三者の供述の伝聞ないしは再伝聞証拠として証拠能力がないとはいえないのである。
しかして、太田早苗は、岐阜県美濃加茂において、前記加藤の主催するコンミューン美濃加茂の勉強会に所属し、その後、同人が昭和五二年初頭以来爆弾闘争を実行するに当たっては、同人と同棲し協力するなど、同人とは同志的結合を超えた深い関係にあり、加藤とともに爆弾犯人として指名手配され、専ら加藤に依存した逃亡生活を送っていたが、やがて同人との同棲生活を解消してからは、知人の紹介により居所を転々とするうち、昭和五八年五月逮捕されたものであるが、当時同女の取調べに当たった検察官相川俊明の当審証言(第一七回公判調書)等によれば、同女はこれまでの行動を深く反省し、捜査官の取調べの当初から被疑事実を率直に認めるとともに、供述するに当たって慎重な態度を維持しながらも、過去の総てを清算しようとの気持ちから、知っていることは第三者に関する事柄を含めありのままに述べようとする態度で取調べに臨んだことが窺われる。そして右各供述調書の記載内容のうちには、被告人が昭和四九年六月に北海道に移り住んで反日闘争を目指すに当たり太田を勧誘したこと、被告人から北海道神宮にガソリンを使って放火した旨聞いたこと、同女が昭和五〇年六月に沖縄のコザへ行く前、東京で被告人、加藤、実方及び同女の四人で会合したこと、その際の会話の内容、昭和五一年一月に札幌に被告人を訪ねた加藤、実方が相次いで同女方に立ち寄り、被告人の近況を話したこと、本件事件のラジオニュースを聴いた実方の反応など、いずれもこれまで関係者が明らかにせず、同女の供述によって初めて捜査官が知り得た事実が多数含まれており(そして、細部の具体的な点で争いはあるにしても、これらの事柄が事実無根の作り話でないことは、被告人の原審及び当審における供述、前記加藤、実方の当審における各供述などに徴して明らかである。)、これらは、捜査官から誘導したりして供述させることの容易な事柄ではないと認められるのであって、このような事情に照らすと、同女は、自らの記憶にもとづいて事実をありのまま検察官に供述したものと認められる。同女に対する捜査官の取調べが、時に夜間までおこなわれ、また取調べの内容が多岐にわたり、同女の被疑事実以外の事柄にも及んだため、取調べも長くなり、長い逃亡生活の後の同女が精神、肉体の両面で相当に疲労したことは容易に推察できるけれども、そのことゆえに、投げやりに自分の記憶、経験に反することを検察官に供述したとは認め難く、また、検察官が同女に対し誤導、強制を加えて供述させた証跡は認められない。この点に関する同女の当審における弁解(「取調べが苦しかったので、いいかげんに認めてしまった」、「こうじゃないか、ああだろうとか言われて、……いいだろうというような感じで認めてしまった。」などという。)は、そのまま措信することはできない。同女としては、過去の闘争の在り方を深く反省し、一切を清算するつもりで、自分の記憶するままに事実関係を率直に述べたのに、それが逃亡生活の間に自分に援助してくれた者の検挙や、刑事訴追に利用され、さらに、深い同志的関係にあった被告人の本件事件の証拠とされる可能性を知るに及んで、これらの者に慮外の迷惑を及ぼしたと感じて懊悩し、当審証人として喚問されたのを機会に、捜査段階の供述をできるだけ否定して、被告人に不利益を及ぼさないようにしようと努めることは、同女の心情として十分理解できるところであって、このような事情に照らすと、同女の当審証言(第一三回、第一四回、第一五回各公判調書)のうち前記各供述調書謄本の記載内容と相反する部分に関しては、右各供述調書謄本の供述記載に、刑事訴訟法三二一条一項二号但書所定の信用すべき特別の情況が存するものと認められる。
このような次第で、太田早苗の前記各供述調書謄本は、刑事訴訟法三二一条一項二号後段に該当し、証拠とすることができるというべきであり、その内容は前叙の事情に照らして大要において十分措信できる。したがって、所論はいずれも理由がなく失当である。
9 共犯者の存在について
これまでの検討から、被告人が本件爆発物を道庁本庁舎一階エレベーターホールの四号エレベーター昇降口付近に設置して爆発させた実行正犯であることが明らかとなったが、前記証人甲野が原審及び当審において供述するところによれば、被告人とよく似た男がバッグを携え、紙袋を提げた男と二人連れで、道庁西玄関から入り、数分後に手ぶらで同じ玄関から出て来るのを目撃したというのであるから、右バッグを携えた男が被告人であり、右バッグに本件時限装置付きの爆発物が収納されていたことを前提とすると、その状況から判断して、紙袋を提げた連れの男は被告人の共犯者と認められるけれども、本件証拠上、その人物が誰であるのか具体的に明らかでない。
所論は、この事実をとらえて被告人が道庁爆破事件の犯人ではない証左である、というのである(最終弁論第八)。
しかしながら、被告人に関して、本件事件当時の山一パーキングの隔日の勤務時間以外の行動、生活ぶりについては、大家の乙野夫婦の各証言、勤務先の者の証言等によっても判然としない部分が多く、爆弾闘争を志す被告人が交際の相手などを乙野夫婦や勤務先に知られまいとして細心の注意を払っていたことは、被告人を訪ねて札幌に来た前記加藤、実方らとの会合の方法、態様などからも窺えるところであって、被告人が本件事件に関与したこと自体を否認し、もちろん共犯者に関しても黙して語らない本件において、その人物像が明らかにならないこともやむを得ない。しかしながら、関係証拠に徴すると、前叙のとおり、被告人が昭和四九年六月非公然の反日闘争をおこなう目的で北海道に移り住み、次第に過激な爆弾闘争を志向して着々準備をすすめて道庁爆破を企図し、爆薬の材料等を調達し、爆発物の製法などについての知識、技能を習得して、本件時限装置付き爆発物を製造し、これを爆破現場まで運び、設置して、爆破を実行したことは、疑いをいれない事実であって、本件事件を敢行するについて中心的役割を果たしたことは明らかである。したがって、本件証拠上、共犯者が明らかでないからといって、被告人が犯人ではないということができないことはいうまでもない。所論は容れることができない。
そして、このように、被告人が本件爆破事件の犯人として、その中心的役割を果たしたことが証拠上明らかである以上、共犯者が特定できず、その役割分担が判然としなくても、被告人の刑責を評価し、その刑の量定をする上で支障となるものではないというべきである。
一三結語
当裁判所は、被告人及び弁護人の事実誤認の所論にかんがみ、原審記録及び証拠物を調査し、さらに当審の事実取調べの結果を合わせて、慎重に検討を加えたが、前叙のとおり、被告人が本件の犯人であり、しかも犯行の中心的役割を果たしたことは証拠上明らかであって、これを疑うべき証拠を見いだすことができない。
その他、所論指摘の諸点につき逐一検討しても、原判決には判決に影響を及ぼすべき事実の誤認は認められない。したがって、所論はいずれも容れることができない。
第二 訴訟手続の法令違反の主張について
所論は、(1)被告人に対する昭和五一年八月一〇日付の逮捕状、同日付検証許可状二通及び捜索差押許可状二通には、いずれも被疑事実として、爆発物取締罰則等の刑罰法規上なんら処罰の対象とされない爆発物の「製造器具の所持」の事実が挙げられており、この瑕疵は、原判決がいうような単なる被疑事実の誤記として救済することの許されない違憲、違法な令状であり、このような令状によって行われた、被告人の逮捕手続は、無効であり、証拠の収集手続も違憲、無効で、収集された証拠の証拠能力は否定され、その結果行われた本件公訴提起の手続は違法であり、公訴は棄却されるべきである、(2)被告人は、取り調べの過程で、捜査官から数々の拷問、脅迫などを受けただけでなく、弁護人との接見を妨害されたものであって、このような違法な捜査活動の結果行われた本件公訴の提起はその手続に違法があるというべきであるから、本件公訴は棄却されるべきである、(3)検察官は、勾留中の被告人が外部との間で発受する文書の内容を探知しているが、これは憲法の保障する通信の秘密を侵略するだけでなく、被告人の防御権を侵害する行為であり、公訴を提起し、維持する検察官の重大な違法であるから、本件公訴は違法、無効であって、棄却されるべきである、と主張するとともに、右(1)で指摘した違法収集証拠につき証拠排除の申立てを排斥し、(1)、(2)につき公訴棄却の申立てをした原判決は、訴訟手続の法令に違反し、その違反は判決に影響することが明らかであると主張する(弁護人趣意・第二章第一、被告人趣意・「はじめに」の六、最終弁論第七)。
そこで検討するに、
所論(1)の主張について
関係証拠によれば、所論指摘の逮捕状の被疑罪名は爆発物取締罰則違反であり、被疑事実の要旨として、「被疑者は部族戦線に所属もしくは同調するものであるが治安を妨げ又は人の身体財産を害せんことの目的をもって昭和五一年八月七日ころ札幌市東区《番地略》乙野次郎方において爆発物の製造器具である消火器、セメント、乾電池、豆電球等を所持していたものである。」旨記載されている。そして、右逮捕状が発付された経緯をみるに、原審証人石原啓次の供述するところによれば(原審第九一回公判調書)、爆捜本部所属の石原警視は、被告人が投棄した物件のうちに、消火器、セメント、乾電池、豆電球等が含まれていたため、このうち豆電球と乾電池は爆発物取締罰則三条にいう爆発物の使用に供すべき器具に、消火器とセメントはこれを補完する物件に該当し、被告人について同罰則三条の供用器具所持の罪が成立すると判断して、昭和五一年八月一〇日午前一〇時ころ札幌簡易裁判所の裁判官に対し右容疑による逮捕状請求書を提出し、さらに担当裁判官に被疑事実は同罰則三条違反の供用器具の所持であり、右請求書記載の豆電球、乾電池等が供用器具等に該当する理由を説明し、右担当裁判官は、即日、右逮捕状請求書に記載されたと同一の被疑事実の要旨を記載した前掲の逮捕状を発付したこと、ところが、事件を検察官に送致するにあたり、同警視は、逮捕状の被疑事実の要旨に前記のとおり「爆発物の製造器具である消火器、セメント云々」とあるのに初めて気付き、事件の送致書では、「爆発物の使用に供すべき器具である消火器、セメント云々」と表現を改めて検察官へ送致し、検察官においても右送致書記載の被疑事実と同旨の事実にもとづき勾留を請求し、これに対し勾留状が発付されたことが認められる。ところで、爆発物取締罰則三条によれば、その処罰対象たる行為は、治安を妨げ又は人の身体財産を害せんとする目的をもってする爆発物の製造、輸入、所持及び注文並びに爆発物の使用に供すべき器具の製造、輸入、所持及び注文であり、爆発物の製造器具の所持はその対象とされていないから、前記逮捕状の被疑事実の要旨に掲げられた消火器、乾電池、セメント、豆電球につき「爆発物の製造器具である」という字句を冠したことは、構成要件との関係で紛わらしく、措辞妥当を欠くものであったと言わざるをえない。しかしながら、同罰則三条にいう「爆発物の使用に供すべき器具」とは、その性質上本来的に爆発物を爆発させるための道具として必要な特別の装置・器具(たとえば導火線、起爆時限装置など)に限らず、用法上爆発物の使用に供すべき器具をも含むと解すべきであり、被告人が投棄した消火器の容器が爆薬を収納したうえで開口部を密閉することにより爆発に威力を与えるのに有用な器具として使用されるべきもの、同じく乾電池、豆電球が起爆装置を構成する有用な器具として使用されるべきものであることは、それぞれ証拠上明らかであるから、前記の逮捕状記載の被疑事実の要旨は、右「爆発物の製造器具である」という字句の存在にかかわりなく、爆発物取締罰則三条が規定する爆発物の使用に供すべき器具の所持罪の被疑事実の記載として欠けるところはなく、また、前示の逮捕状発付の経緯に徴すると、発付に当たった裁判官も同規則三条違反の被疑事実について右逮捕状を発付したものと認められる。
してみると、右逮捕状の所論指摘の字句の点は、逮捕状の効力にかかわるものではないというべきである。そして、先にみたとおり、右逮捕状による逮捕に引き続き、適法に勾留状が発付されて、勾留が行われたことをも考え併せると、所論指摘の点が、本件公訴の提起の効力に影響するものでもないことも明らかである。
また、関係証拠によれば、本件捜索差押許可状二通には、前記の逮捕状と同一の被疑事実を記載した書面がそれぞれ添付されるところ(本件の検証許可状二通には被疑事実は付されていない。)、これら四通の令状についても、前記逮捕状の場合と同じく、爆発物取締罰則三条違反の被疑事実につき有効に発付されたものと認められるから、これらの令状にもとづいておこなわれた証拠収集手続に違法の廉はなく、これと同旨の原判決の判断は相当であって、原審が証拠排除に応じなかったことを論難し、原判決の訴訟手続の法令違反を主張する所論は、失当であって容れることができない。
所論(2)の主張について
被告人は、公判廷において、所論に沿う供述をおこなうけれども、証拠保全の申立により昭和五一年九月一四日におこなわれた裁判官の検証においても、被告人の身体に暴行を受けたことを窺わせる痕跡は存しなかったものと認められ(被告人の原審第一〇九回公判期日における供述記載、昭和五一年九月二二日付勾留取消請求却下決定書)、他に所論に沿う証拠は存在しない。被告人のこの点の供述は、にわかに措信しがたく、所論の事実を前提とする公訴棄却の主張を容れなかった原判決は相当であって、訴訟手続の法令違反の廉はないというべきである。
所論(3)の主張について
当裁判所は、第七回公判期日において、弁護人請求の証人加藤三郎を取調べ、第一三回ないし第一五回各公判期日において、検察官請求の証人太田早苗を取調べた。
ところが、同女の右証言及びその後取調べた同女の検察官に対する供述調書(謄本)の供述内容との関係で、右加藤を再度証人として取調べる必要を生じ、検察官請求にかかる加藤証人を改めて採用し、第二七回公判期日に取調べたが、その際、弁護人の質問に対し、右加藤証人(別件で勾留中)は、証人として再度公判期日に出頭するにあたり、実方藤男から、あらかじめ、検察官作成にかかる前記太田早苗の検察官に対する供述調書(謄本)を刑事訴訟法三二一条一項二号後段の書面として取調請求する旨の請求書(昭和六一年一月一六日付)のコピー等の差し入れを受けたと証言し(第二七回公判)、その後、第二九回公判期日に証人として出頭した右実方は、検察官の問いに対し、前記証拠調請求書のコピー等を被告人から、あるいは被告人の支持者から受けとって、これを証人として出廷予定の右加藤に渡した旨証言した(第二九回公判)。
ところで、右証拠請求書には、右太田の検察官に対する供述調書を前記法条に基づいて証拠請求する必要上、用紙を上下二段に分けて、上段に右太田の検察官に対する供述調書の内容を、下段に同女の当審における主要な証言内容をそれぞれ逐一摘記し、対比した部分があり、右太田の場合と尋問事項が大部分共通する右加藤に、その証言に先立って右証拠請求書の内容を閲読させることは、実質上、右太田の証言の場に立会わせたものにも等しく、右加藤の証言内容に不当な影響を与えかねず、決して好ましいことではないのである。この点、検察官の求釈明に対し、主任弁護人は、当審第二七回公判期日において、弁護人から右実方を介して右加藤に右請求書のコピー等を渡したことはない、被告人のもとから出たとも考えるが、出所不明であると述べるに止どまった。したがって、右実方の証言によれば、その出所は被告人であるということになるが、公判審理の係属中に、右請求書のコピーを含めどのような書面が、どのような経路で実方を経て加藤に渡されたか依然として明らかでない。このような事情の下で、検察官は、右実方を介して右加藤へ渡された書面の内容、入手経路等調査した結果を踏まえて、実方証人に対し、前記証拠調請求書のコピー等を被告人から受け取り加藤へ渡していないかなどにつき質問したものと思われるが、右に述べた事態の経緯にかんがみ、検察官が右書面の流出経路につき調査をおこなったことをもって違法ということはできない。なお、所論は、検察官が、原審以来継続して勾留中の被告人の発受する全文書の内容を探知していたと主張するが、そのような証跡は認め難い。所論はいずれも容れることができない。
第三 法令適用の誤の主張について
所論は、原判決は本件につき爆発物取締罰則一条、一二条を適用しているが、本罰則は、(1)明治一七年太政官布告三二号として制定されたもので、旧憲法下においても、議会の関与した法律によりその有効性を積極的に承認されたことはなく、あくまでも太政官布告として存在していたにすぎないから、日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律(昭和二二年法律七二号)の一条に該当する結果、昭和二二年一二月三一日限りで効力を失ったから、現在、右罰則を適用する余地はなく、これを適用することは憲法三一条、七三条六号、九八条一項に違反し、(2)その制定の趣旨、沿革、過去の運用の実態、多くの批判をあびて刑法の改正作業のなかで実質的に廃止寸前にあることなどに徴し、本罰則がその構成要件として掲げる「治安を妨げる目的」は、その意味、内容が漠然としていて、思想、信条をいうに外ならず、恣意的解釈により思想弾圧に用いられる虞れがあり、また、所定の刑罰が罪刑の均衡を失した苛酷なものであるなどの点で、憲法一九条、二一条、三一条、三六条に違反し、同法九八条一項にいう「その条規に反する命令」として、その効力を有しないものであるから、このような違憲無効な本罰則を被告人について適用した原判決には、判決に影響する誤りがあると、主張する(弁護人趣意第二章第二、控訴趣意補充書)。
しかしながら、爆発物取締罰則が、旧憲法下において、法律と同様の効力を有し、現行憲法下においても、なお法律としての効力を有していることは、最高裁判所の判例が示すとおりであり(最高裁第二小法廷昭和三四年七月三日判決・刑集一三巻七号一〇七五頁、最高裁第三小法廷昭和五三年六月二〇日判決・刑集三二巻四号六七〇頁等)、また、本罰則一条の定める「治安を妨げる目的」の意味、内容が不明確なものではなく、その定める刑が罪刑の均衡を失した苛酷な刑罰とはいえないことも、最高裁判所の判例が示すとおりであり(最高裁第一小法廷昭和四七年三月九日判決・刑集二六巻二号一四一頁、最高裁第三小法廷昭和五〇年一一月四日決定・裁判集刑事一九八号二九九頁等)、その他所論指摘の点を検討しても、同罰則が所論指摘の憲法の各条項に違反するものとは認められない。したがって、本件につき爆発物取締罰則一条、一二条を適用した原判決に誤りは認められず、所論は容れることができない。
よって、論旨はいずれも理由がないから、刑事訴訟法三九六条により本件控訴を棄却することとし、当審における訴訟費用を被告人に負担させることについて同法一八一条本文を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官水谷富茂人 裁判官高木俊夫 裁判官平良木登規男は、退官につき署名押印できない。 裁判長裁判官水谷富茂人)